「春よ 春よ」


カチ、カチッ。
シャープペンをノックする音が小さく響く。その合間合間に、問題集やノートの頁を捲る音や下敷きを抜き差しする音が、静まりかえった部屋の中で時折聞かれる。
相変わらず集中力パねぇな……。
息苦しいほどの静寂と緊迫感がもうかれこれ3時間ほど続いている。さすがに凝った肩を解そうと、銀八がそれでも気を遣いながら控えめな伸びをしようと両腕を伸ばした時、 気配を感じたかふと顔を上げた桂と目があった。
「や、これは……」
やましいことなど何もないのに、なぜか言い訳めいたことを口走り始めた銀八に桂は眉を顰め、
「あまり気を遣わないで下さい、先生。身動ぎもしないでじっと座ってられる方が気になります」
困ったように言った。
「そ、そう?」
あー、よかった。なんか肩凝っちゃってさぁーとここぞとばかりに伸びをする銀八を、しばらく面白そうに眺めた後、桂はノートをぱたりと閉じた。
「もうこんな時間か……。そりゃ、肩も懲りますよね」
気付かなくて、長々とすみませんーと頭を下げてくる。
変わってねぇな。こういう律儀なとこ。
銀八は懐かしさで胸がいっぱいになりそうだ。
「気にすんな。集中するのは悪いこっちゃねぇ。でも、根を詰めすぎてもあんま良くねぇから、ちったぁ休め。今、茶でも入れてやるから」
また頭を下げる桂から逃げるように、キッチンに駆け込んだ。
そうでもしなければ、こみ上げてくる熱い何かのせいで目が霞みそうになるところだった。
ほんと、あの頃とちっとも変わってねぇ……。


今でも鮮明に思い出す。

「おれ、S大の史学科に進みます」
秋の模試の結果をふまえての懇談で、桂は突然そう言ったのだった。
なんでー?と銀八は不思議だった。
別にS大学に悪いイメージを持っていたわけではない。 難関国立大の一つだし、銀魂高校としても、卒業生の進学先としては十分に誇らしい。なのに、担任としてすぐに納得しかねたのは、志望先が史学科ーというより、文学部だったこと。
文学部を選ぶ生徒の多くはその時点で先のことを何も考えてないーと銀八は思っている。偏見だとの自覚はあるが、なにしろ、自分や自分の周囲が軒並みそうだったので。みな、 やりたいこと、好きなこと、楽しそうなことを「する」ために進学してきていた。「やりたいこと」すらなくて、それを捜すための猶予期間としての4年間を獲得するために。
本来は、なりたい自分になるため、夢の実現のためには何を学ばなければならないか等を考えて学部を選ぶのが筋だったんじゃね?と今(教師)になって思う。
銀八がこの職に就いているのだって、教師という夢ありきではなかった。文学部卒業後の進路の間口の狭さゆえ、選択肢がろくになかった結果だ。
むろん、どんな学部でも優秀な者は違う。が、一般的な、もしくは銀八のようにだらけた学生時代を過ごした文学部卒の多くは、大学で学んだことを活かせるような職にはなかなかありつけない。それが現実。
俺(教師)なんて、まだマシな部類だー銀八は、そう思っている。
なので、よほど本人にこだわりがあるような場合以外は、文学部希望の生徒にそれ以外の学部の受験も考えてはどうかと奨めてみるのだが、桂にはそんな指導は必要はなかったのだ。その時までは。
入学時に行われた志望校調査では、同じS大でも「理学部」と答えたと、担任であった銀八の持つ調査書には書かれていた。 それからずっと同じ記述が続き、三年次の一学期末でもそれと変わりなかった。 理学部志望ですーと桂が、銀八の目の前で答えたのだから間違いない。
なんでまた、今頃?
難しくなる数学についていけず、途中で理系から文系へとスイッチする、いわゆる文転は少なくない。が、桂はこれまた一貫して、文系科目・理系科目の別なく、全国模試でもそこそこの好成績をとり続けていて S大学理学部だって余裕のA判定だったのに……なんでそんなとこ狙い?そう思ってしまったのも仕方ない。
桂の志望変更を積極的に賛成する理由が特に見当たらなかったこともあり、一応銀八なりの持論を初披露したものの、説得は最初から諦めていた。いくらこちらが熱くなっても桂のことだ、 銀八の言い分を一つ一つ馬鹿丁寧に論破してくるに決まっているのだ。負け戦は最初からしないに限るーというのも、また銀八の持論であった。
なので、一応担任として一通り言いたいことだけ言った後は全て桂の決断に委ねた。
予想通り、桂は律儀にも銀八の助言(?)に、いちいち頷き、感謝の言葉を述べながらも、意志を曲げることはなかった。
なら、事は決まりだ。
銀八には、それ以上何も言うことはなかった。励まし、目標に向かっていく生徒を卒業まで全力でバックアップするのみ。
センターの目標点数を確認し、銀八から簡単な激励の言葉を貰った桂は、ぺこりと一礼して席を立った。
「先生」
教室から出て行きざま、桂が銀八に声をかけてきた。
「んー?なんだ?」
珍しいこともあるものだと、次の生徒の資料に落としていた目を上げた先に、振り向いてこちらを生真面目そうな貌があった。
「俺、教師になっていつかここに戻ってきますよ」
驚きに言葉をなくす銀八の目に、うっすらと笑み浮かべ一礼する桂の姿が映ったのはほんの一瞬。冷酷にも扉はすぐに閉じられた。



「あん時は取り残されて、辛かったなぁ」
自分で入れた茶をすすりながら、銀八がわざとらしく桂を見遣りながら溜息を吐く。
「取り残すって……俺の後、まだ近藤が控えてたでしょうに」
ちゃんと懇談やったんですよね?あからさまに疑わしげな目をされた。
「わ、疑っちゃう、そこ?お仕事第一だよ、俺は。今も昔も」
どーだか、と言わんばかりに細められた目に、つい意地悪を言った。
「じゃあ、そんなにも疑わしい教師を慕ってくれちゃってるヅラ君はなんなんですか?」
「ヅラじゃありませんし、慕ってもいません」
つれなく返されたが、尖らせた口がわずかに綻んでいる。
可愛い。
これで二十歳すぎてんだよなー。
それどころか、もうすぐ学生生活から卒業だよ。そりゃ俺も年取るわ。涙腺が脆くなるはず。

早いものであれから4年。この夏の教員採用試験を受けた桂は、当然のように一次試験を突破。 ここのところ、毎日のように先輩教師であり、一応(?)恩師でもある銀八のところで二次試験にむけて絶賛受験勉強中だ。

わずかな休憩を終え、桂がテキストの頁を開きかけた時、銀八が唐突に訊いた。
「なぁ、結局なんで史学科なんだ」
え?とばかりに桂が手を止めたのを見て、銀八は言葉を足した。
「教師になるなら、別に理学部行ったってよかったじゃん」
「先生、まだそんなことを?今更じゃないですか」
「自分でもそー思うけど、今頃になって気になっちゃってさ……」
「普通、懇談の時に訊きませんか、それ?」
「俺がいつ普通の教師だったよ?俺は普通なんて枠に囚われるようなちっさい男じゃありません」
「……文学部批判しておいて、ですか?」
「批判ってわけでもねぇけど。ありゃ、経験談みてぇなもんだ。文学部の連中、卒業するころになってやっと気付くんだよな、『れ、就職するとこなくね?』ってな」
確かに、周囲で慌ててる連中は少なくないですね、と桂。
「俺、教科としては理系科目のほうが得意でしたけど、人に教えるのはちょっと……それで、です」
「そーなの?」
「元々、俺が理系に進むつもりだったのは、卒業後の進路を考えてのことだったんですがー」
「そりゃ、あれだな。俺の持論とそう違いはねぇな」
そうです、と桂は頷いた。
「でも、それはあくまで一般企業を想定してのことだったので、目標が教師に変わったら、目指すは社会の教師だな、と」
変な言い方になりますがーそう言葉を継いで桂は続けた。
「俺、自分の得意教科だと、果たして出来ない生徒の気持ちを解ってやれるのか、と心配で……。それ以前に、なんでこれが解らないんだろう?って不思議に思っちゃいそうで。 解りやすく教えてあげるようなことが自分にできるんだろうか、って」
なんだそりゃ。
「で、国語や英語だと、文法もですが、なにより読解が大事になってくると思うんですが、それも、本文を読めばちゃんと解りやすく書いてあるのに、それを見つけられない生徒をどう導いてやればいいのか解らないんです。 目の前にあるものを見えないと言われると、誰だって困ると思いませんか?」
国語の先生にこんなこと言うのは僭越ですけどーと申し訳なさそうに肩を縮める。
「そりゃ、なんとなく解るような気がしないでもない……かな?」
歯切れが悪いどころの話ではないが、普段生徒に手を焼くことの多い銀八にしても解りかねるのだから仕方がない。
「その点、歴史なら解説のし甲斐がありそうで……」
そーゆーもんかな?と銀八が訊けば、そーゆーもんです、多分ーと綺麗に笑った。
やっぱ可愛い。
考えてることはいまいちーつーか、かなりー解んぇねけど。
「で、今からなにやるんだ?」
開いたテキストを覗き込むふりをして、白い額に口づけた。
「……邪魔しないで下さい」
拗ねたように言う口元がやっぱり可愛い。
「わ、冷たい!先生、ちゃんと卒業するまで我慢したのに。偉かったじゃん、俺?」
「当たり前のことで威張らないで下さい。恥ずかしいですよ?」
「や、簡単に言うけどさ、俺、それはそれは大変だったんだよ?手ぇ出すどころか、告るのだって耐えに耐えたってぇのに。やっと卒業してくれて、清水の舞台どころかドバイ・シティ・タワーから飛び降りるくらいの気持ちで電話したってぇのに、なかなか信じてもらえなかったし……」
あん時は傷ついたなぁーと銀八は、大仰に溜息を吐いて見せた。
「4月1日ですよ?誰だって嘘だと思いますよ。それに、ドバイ・シティ・タワーなんて上れませんからね。まだ建設されてもいません!」
肩を竦められた。
「や、だってさ、卒業したとはいってもよ、3月31日までは在学生扱いじゃん?」
「当然です、と桂。
「ほら。ヅラ君頭固いから、絶対そう言うと思ってたからね。だから、日があけるのを待ってー」
「で、エイプリル・フールですか?」
やれやれとばかりに、首を振られた。
「しゃーねーだろ。もう待てなかったんだよ、一分一秒たりともな」
「なんか……恥ずかしいですよ、先生」
「だったら、在学中の方が良かったか?」
「とんでもないです。教師と生徒の間で、そんな……おかしいです」
堅苦しく責める口調とは裏腹に、睨める目尻が朱に染まり、かなり艶めかしい。
高校ん時は、ここまで色っぽくなかったな。全然変わってねぇと思ってたけど、やっぱちったぁ大人になってんだな、こいつも。
驚きよりも寂しさがちょぴり多い心持ちになりながら、見惚れていると、
「先生、俺、こっちに集中したいんですけど」
叱られた。しかも本気で嫌そうだ。
へーへー、申し訳ありません。こんなのが恩師でごめんねー。
盛大に拗ねてやろうかと、机兼テーブルで年がら年中出しっぱなしの炬燵に突っ伏した。
ん?
ふわり、と髪に何かが触れた。
「困った人ですね、ちっとも変わらない」
くしゃり、と銀八の髪が二三度掴まれ、そのまま頭を撫でられた。
そりゃ、俺の科白じゃんか。
顔を上げ、そう言ってやろうとしたが上げられない。桂の手があまりに優しくて、ひんやりと心地よくてー。
「あー、すっげぇ落ち着く……」
自分でも恥ずかしいほど惚けた声が出た。
ええい、こうなりゃ毒皿!
「……なぁ、いつまでおあずけなんだ?」
ぼそりと呟いてみる。
ぼかり!
優しかった手が凶器に早変わりし、頭を強か叩かれた。
痛ぇなぁ、こんちくしょう!
が、自分が悪いことは百も承知。だから、文句は言えない。それにー。
膨らませた頬の丸みが、あどけなくて稚くて、たまらない。
やべぇ。
「……もう少し待ってて下さい。同僚は無理でも、せめて同じ立ち位置になるまで……」
そっぽを向いたまま、それでも、そう言ってもらえた。
今はこれで充分、そうだろ?
「わーったよ」
精一杯の強がりで、大人を気取った。なのに、
「だから、もうしばらくここには来ません」
だなんて、つれなすぎる。
「合格したら、真っ先にお知らせします。だから、それまでお利口にしてて下さい」
悪魔のような言葉を天使のような貌で吐かれては受け入れるしかない。
「……りょーかい……」
項垂れた銀八の髪に、今度は手ではないものが触れた。
「あと、一ヶ月もありませんよ。そうしたら、あとは春を待つだけです」
優しい声音と落とされた唇の温かさとがじんわりと心に染みる。
「二人でな」
小さく呟けば、頷く気配。
「ええ、二人で」
「……待ってっからな、桂先生」
桂はテキストに目を落としたまま何も言わない。が、口元が綻んでいるのはそこに書かれている内容のせいだけではないだろう。

おまえなら、俺よりずっとずっとマシな教師になるさ。
青、取之於藍而青於藍
冰、水為之而寒於水
ーってな。

再び部屋に響きだしたペンの音に誘われ、銀八は春を待ち、春を請う心を抱いたまま眠りについた。
今度こそ、その唇に温かなものが触れたことに気づきもしないでー。

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