おいおいおいおい、勘弁してくれよ。
ひょっとして、またか?
あまりの暑さに辟易し、万事屋までの帰り道、一時の涼を求めて立ち寄った桂の隠れ処。
そこで、身じろぎもせずに端座している桂を見つけて銀時は盛大に溜息をついた。
あれから何年たってるよ、おい。
おれたちゃいい大人になってるんじゃなかったっけ?
なぁ、ヅラぁ………
「風の音」
「なにやってんだ、ヅラ?」
あまりの暑さに辟易し、松陽に言いつけられていた家の仕事を適当に放り投げ、銀時は小太郎に会いにーというより、小太郎の母が
ふるまってくれるであろう冷たい茶菓を目当てに桂家にやって来たのだが。
いつもの癖で庭から小太郎の部屋へ直接回り込んでみたら、あろうことかこの強い日差しをものともせず縁側ギリギリに正座している小太郎がいた。
それはまるで、松陽の講義を聞いているときの姿勢そのままで、一瞬、銀時は桂が勉学中かと警戒した。
以前、うっかり自学中の桂の私室に上がり込み、
結果、『大和本草』の音読に付き合わされるという”痛い目”に遭っている。
離れていても書見台がないことは見て取れたが、それでも、念には念を入れて問うてみたのだった。
「ヅラじゃない、桂だ。見てわからんのか?」
「わからないから訊いてんだけど?」
「待っておるのだ」
風をなーと小太郎は銀時の方を一瞥だにせず付け加えた。
銀時は小太郎の視線の先を追ってみた。
ああ、そういうこと。
やっぱおまえ正真正銘の大莫迦だわ。
銀時は呆れはしたものの、草履を行儀悪くその場にさっさと脱ぎ捨てると小太郎の横にごろりと寝そべった。
小太郎には行儀が悪いと叱られたが、そのまま寝そべり続け、呆れ果てた様子の小太郎と一緒に、ちっともふきそうもない風を待ってみることにした。
「風、ふかねぇな」
「ふかんな」
「いつから待ってんの?」
「つい先ほどからだ」
「ふーん」
つい先ほどーという割に、小太郎の襟足にしっとりと汗が滲んでいるのが見て取れる。
汗っかきな銀時と違い、
めったなことでは汗をかかない小太郎にしては珍しい。
ひょっとしたら本人が思っているよりもっと、もっと長い間
こうやって身じろぎもしないで座っているのではないかと思わせるのに充分だった。
本当に、こいつ莫迦だよな…。
小太郎の視線の先、そこにあるのはビードロの風鈴。
赤と黒の金魚が泳いでいる涼しげな模様が描かれている。
この前銀時が遊びに来た時にはなかったものだ。
きっと小太郎はこの風鈴の音が聞きたくて、こうして風を待っているのだろう。
「なぁ、その団扇使ってみたら?」
銀時は、黒竹の団扇立てに立っている丸柄団扇の方を顎でしゃくって提案してみる。
風鈴の音が聞きたいのなら、団扇ででも風を送ればいい。
簡単なことだ。
「…あおいだ」
「うん?」
「もうあおいでみた」
「じゃ、なんで?」
音は聞けたんだろうに、と銀時は訝しんだ。
「上手くいかなんだ」
「何が?」
「最初は風鈴をこう手で持ってみてな、息を吹きかけてみたのだ」
「で?」
「うむ。なったのはよいが、近くでちりんちりんとただやかましいだけでな。で、釣り下げてからあおいでみたのだが、上手くいかなんだ」
「だから何が?」
小太郎の説明は丁寧だがくどい時がある。
解りやすいが、せっかちな銀時には、時として相手をするのに苦痛を伴う。
「加減だ」
「加減?」
銀時が再度問うと、小太郎はこくりと頷いた。
そうして、送る風が強すぎたり弱すぎたりで、どうしても心地よい音色を出すことが出来なかった。それに、一生懸命扇ぎすぎたらしく、かえって暑苦しくなってしまい、風鈴の音を聞いてもちっとも涼しく感じなかった。
だから、本当の風を待っているーとやはりじっと前を見つめたまま言った。
うわぁ。
莫迦な上に不器用ときてるよ。
どうしてこいつはこうも見た目と中身が違いすぎるんだろう。
銀時の頭が少し疼き始めたのは、多分この暑さのせいだけではない。
小太郎が一心に風鈴を見つめているのを良いことに、銀時は寝そべった姿勢のままギリギリまで手を伸ばし、どうにか団扇を手に取ると、風を風鈴の方に送ってみた。
距離と高さがあることを考えて、少し強めに扇いでみたのが功を奏したようで、風鈴は銀時の作り出した風に煽られ、ちりん、と涼やかな音を鳴らした。
たった一度。
ごく、短く。
それでも
銀時は小太郎の白い頬にさっと朱が走り、目が大きく見開いたのをハッキリと見た。
「今の聞こえたか、銀時!」
ぽーっと紅潮したままの頬で、初めて、小太郎は銀時の方を振り返ると大声を上げた。
如才なく、手にした団扇を背中に隠し持ちながら、銀時は、小太郎が莫迦で不器用なだけじゃなく、鈍感でよかった、と心からそう思ったのだった。
本当に、あれから何年たったろう?
仕事を放り投げたことで、松陽に叱られたのかどうかは記憶にない。
ましてや、当初の目論見通り、冷たい茶菓にありつけたかどうかさえも。
なのに
小太郎の襟足に浮かんでいた玉のような汗や上気した頬、そういったものはハッキリ覚えているのだから始末に負えない。
そして、今ー
「なにやってんの、ヅラ?」
「ヅラじゃない、桂だ。見てわからんのか?」
ああ、やっぱあん時と一緒。こういうのデジャ・ヴュとかいうんじゃなかったっけ?
「わからないから訊いてるんですけど?」
「待っておるのだ」
「まさか…風?」
嫌な予感ほど的中するのはなんでだろう?
「わかっておるなら訊くな」
わかりたくてわかったわけじゃねぇ。
前にもこんなことがあったのを覚えてるだけでーと喉元まででかかった言葉を、銀時は呑み込んだ。
そのまま無言で部屋に上がり込み、やっぱりゴロリと桂の横にねそべった。
何かに夢中になっている時の桂には何を言っても無駄なのだ。
桂の視線の先には思った通りビードロの風鈴があって、あろうことか例の
ペンギンもどきの顔が描かれていた。
あの謎の生き物に可愛げのかけらも見いだせない銀時には、ただの生首のようで、とても軒先に吊そうなどと思えない代物だ。
「行儀が悪いぞ、銀時。昔とちっともかわらんではないか」
桂はやはり銀時の方をチラとも見ずに叱責する。
なんだ、おめぇも覚えてるんじゃん。
で、いい年して、まだおんなじことやってんだ。
叱られても寝そべったまま、銀時はあの日と同じように桂を見上げてみた。
幼い頃と違って髪を高く結い上げていないので、襟足は拝めない。
そのことに相当がっかりしている自分に気付いてしまい、銀時は慌てて視線を逸らし、そのまま部屋の奥を探ってみる。
残念ながら、いざという時の団扇は見当たらない。
おいおい、勘弁してくれよ。ひょっとして風が吹くまでこのままってか?
あーあ。
知らずついた溜息に、桂がふっと銀時の方を見た。
そうして、涼しい顔で、
「今度こそ、待つぞ」と…
ズルはなしだ、銀時ーと…。
その上、手に持っていた団扇でゆっくりと自分を扇いでみせる。
んだよ、バレてたのかよ。
引っかかったふりするなんて、たち悪ぃぜ小太郎……。
はるか昔の小さな罪を今になってやんわりと指摘され、きまり悪さを覚えた銀時は苦し紛れに
桂の膝に頭を埋めた。
暑苦しい、と団扇でしたたか打ち据えられることも覚悟したが、
降ってきたのは涼やかな風。
桂が、そっとあおいでくれているものらしい。
「あー、暑ぃ。死にそう」
素直に涼しいと言えないのが銀時の悪い癖。
あおいでもらっておきながら憎まれ口しかたたけない。
桂は銀時の憎まれ口が耳に入らなかったかのように、同じ調子であおぎ続けている。
下手をすると、今すぐ死ね!なんならおれが引導を渡してやってもよい、位のことは言いかねないのだが、本気で目の前の
生首風鈴に集中しているらしい。
つまんね。
ま、でもこういうのも悪かねぇかもな。
心地よい風にうっとりそのまま目を閉じると、意識は待ちあぐねていたかのように遠いあの日々に舞い戻り、聞こえるはずもない山鳩の悲しげな鳴き声までが聞こえてくるようだ。
優しい先生がいて、世話焼きの小太郎がいて。
負けず嫌いの高杉がいて、今より小さい自分がいた。
記憶が貪欲にさらに過去へと遡り始めたその時、桂がピタリと手を止めた。
何事かと息を殺してみると…………
あ。
見た目は不細工だが、音は悪くねぇな。
目を閉じたままの銀時には桂の表情まではうかがい知れない。
けれど
きっと……………
あの日のように。
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