「epokhe」



「貴様、その刀は」
刹那、朱に染まったかと思われた桂の視界は、一転して闇に閉ざされた。
初めて目にする生き物めいた刀に袈裟懸けにされたなど、ましてや崩れるように橋の床板に倒れ伏したことなども知る由もなく。全てがあっけなく行われ、そして終わっていた。


熱、い。
定まりきらない意識を僅かに取り戻した桂は、ジリジリと炙られているような熱に全身を包み込まれていることに気がついた。
どうやら斬られたものらしいな。
どこか他人事のように感じながら、ぼんやりと思う。 重すぎる瞼は開こうとする気配すらなく、眼裏に浮かぶのは闇に蠢く紅の光のみ。そのあまりの妖しさ、美しさに、ともすれば幻惑されたかとも、またただの夢かとも思えてしまう。
現なのはこの焼けるような痛みのみ。まるでそれだけが、桂をこの世につなぎ止めている慥かなものであるかのようだ。
熱い。
だが、どこで? 誰に?
熱に浮かされながら手繰る記憶は、不鮮明で断片的にすぎる。少しでも多くかき集めようと足掻くうち、それらすら夢と混濁し始め、桂をじんわりと苛んでいく。
やがて。
混ざり合い、融け合い、完全に一つになった「それ」は、夢とも現とも違う「何か」にすっかり姿を変えてしまった。もう、追えない。思い出せない。
何が本当で何が嘘なのか、今の桂には解らない。
ぞくり。
禍々しいまでの焦燥が、今まで桂を支配していた痛みをすっかりどこかへ追いやってしまったようだ。そして新たに桂を支配すべくのしかかってこようと狙っている。しかもそれは容易く成されることだろう、このままでは!
駄目だ。このままでは駄目だ。
己を保て。俺は何も恐れない、屈さない。例え全てを忘れ去り、この世に己以外慥かなものなど何一つなくなったとしても!
全身全霊をもって身構えようとしていたはずの桂は、けれど、すぐに緊張を解いた。
莫迦か、俺は。
いつだって慥かなものが、己が裡にあるではないか。
桂の心の奥深くに根を張り、すっかり棲み着いている二人の幼馴染み。これから先、どんなことがあっても桂から決して消え去ることなどない彼らの記憶を糸口に辿りさえすれば、ほら、次々と鮮明に浮かんでくる状景、面影。
もう、大丈夫。なにがあっても、俺は、俺たちは。
なぁ、高杉。なぁ、銀時。そうであろう?
だからー
待ってろ、待っててくれ。決して早まってくれるなよ、高杉……。
何にもまして鮮やかに脳裏に浮かんでいた寂しい男のビジョンは、やがて眼裏に放たれ続けている真っ赤な光に射られ、桂の意識も紅く飛んだ。次の瞬間には、黒々とした闇が全てを埋め尽くしていた。
なので、これも桂は知らない。
それまで身動ぎ一つ出来なかった身が、その時ばかりは必死で母を求める幼子のように腕を伸ばし、空に掲げたことを。祈るようにも、縋るようにも見えたその指先を、思わず掴んだ者がいたことを。

な、んで。
気がつけば、目の前に差し出された細い指を渾身の力で握り込んでいた己の拳を、沖田が驚きに見開かれた両の眼でじっと見つめ続けていたことも、また……。



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