「測り難きは」 前篇


「やっぱりいいわ〜、綺麗よ」
開店前の緊迫した雰囲気には不釣り合いの頓狂な声に、ふつりと緊張の糸が切られた。
ちょ、誰よ。
せっかく入っていた気合いが抜けてしまった私は、振り返ってその主を捜した。
見れば、既に身支度を終えた者たちが、つい今し方駆け込んできたばかりのヅラ子を取り囲んでいる。どうやら、寄って集って化粧を施しているらしい。

「普段もちゃんとこれくらい色をおきなさいよ、ヅラ子。こんなに綺麗になるんだから!」
「やっぱりこれくらい鮮やかな色の方が断然映えるわよね」
「ほんと、よく似合うわー」
鼻の穴を膨らませて、まるで自分たちの手柄のように言い合うのが可笑しい。世話を焼かれ、褒めちぎられている当のヅラ子は顰めっ面なのに。どうやら頬にのせられた鮮やかな色合いがお気に召さないらしい。
「やはりいつもの色味でよくはないか?派手すぎる気がするのだが……」
なぁ、あごみ殿ーと訊くヅラ子を、あずみが強かに叩いた。
「あずみだって言ってんだろ!」
ドスの利いた声で叱りながら、
「だめよ。今日はあんたが主役なんだから」
そう言い聞かせている。
あんたが主役ーというのは、今日がヅラ子の誕生日だからだ。
ここしばらく、ママが誰かれかまわず営業をかけたお陰もあって、普段の何倍ものお客がヅラ子を祝おうと、 思い思いのプレゼントと邪な思いを抱えて今か今かと開店時刻を待っているだろうことを、私はーというかここにいるみんなはー知っていた。
「主役は派手なくらいで丁度いいのよ!」
「そうよー」
「そういうものよ」
口々に姦しく言い立てられてもまだヅラ子は少し不満げだったが、開店まで十分を切ってるわよ、文句は後で!と急かされては仕方ない。慌てて銘々に割り当てられている鏡台の前に向き直った。
そこからが速かった。
あずみに乱された髪は、手櫛をさっと二、三度通しただけで整い、瞬く間に髪紐で結わえられた。紅皿、紅筆が次々に手渡され、ヅラ子は碌に鏡も見ずにさっと紅を引いた。 それはもう、あっさりと、あっけなく。 ただそれだけなのにー
「あら、まるで灯りがともったみたいじゃなぁい?」
ヅラ子は、すっかり”主役の顔”をつくり終えていた。
まるで歌舞伎か手妻を見ているような早変わりで。
「心なしか、部屋まで明るくなった気がするわね」
「いいわねー、その色似合う人ってなかなかいないわよ」
「羨ましいわー」
うん、綺麗だ、ヅラ子。羨ましい。
あずみたちが手放しで褒めるだけのことはある。
けれど、そう素直に認められない人も無論いるわけで……。
私は、せっかくの日だからとママの配慮で今日のシフトから外されている、数名の顔を思い浮かべていた。 私は、あの人たちがここにいたら、絶対なにか水を差すようなことを言うか行動をとったはずだ、と考えた。そうしてここにいる何人もが、嫌な思いをさせられたに違いない、と。
でも、肝心のヅラ子には通じなかったでしょうけど。
狙いを定めて繰り出されたはずの嫌がらせや嫌味が、無関心のまま虚しくスルーされていく様を、私は何度この目で見たことか。
思い出すと、笑いがこみ上げてくるわ。
だって、愚かじゃない。
羨みを妬みや嫉みにまで育ててしまうなんて。しかも、その相手がヅラ子だなんて。
あの子ときたら、周囲の思惑にこれっぽっちも気付かないんですもの。
よほどの大物か、よほどの大馬鹿かというくらい、いつでもどこでもマイペースを崩さない。正に暖簾に腕押し、糠に釘。
寄りにも寄ってそんな相手に、ねぇ?
そんな無駄なこと、私だったらごめんだわ。

今度こそ、声を上げて笑い出しそうになる私に、ママの鶴の一声が危ういところで元の緊張感を取り戻させた。
「開店五分前よー!」
私たちは上官に呼び出される直前の兵士よろしく、最後の身だしなみチェックを始めた。もうすぐここから出なければならない。遅くとも後二分後には 入り口に整列していなければならない。
最後の最後、帯に目を遣ろうとして、ヅラ子がごしごしと両頬をこすっているのを見てしまった。
やっぱりあの色、嫌なんだ。
頑固なヅラ子にやっぱり笑いがこみ上げてきそうになったけれど、力任せに乱暴にこすったらしく、頬どころか口元まで無惨なことになっているのに気付いては、さすがに笑えない。
「ちょっと、ヅラ子……」
見かねて、拭ってやろうと頬に触れたのだけれど……。

自分でも、顔が強ばったのがわかった。


ヅラ子が不思議そうに私を見つめている。
長い睫に彩られたまっすぐな瞳に、吸い込まれそうな心持ちがする。
無様に開いたこの口を、閉じたいのに閉じられない。頬に張り付いた指先を、離したいのに離せない。
まるで、私だけが凍てついてしまったようだ。


「さぁ、そろそろよ、みんな!」
気合いの入った声に、ヅラ子の注意がそれ、私の呪縛も解けた。
今度も、ママに救われた。


震えそうになる指先で、どうにか余分な紅を拭いとることができた。
律儀に頭を下げるヅラ子に、ぎこちないながらも笑みを浮かべることもできた。

よかった……。よかった。

でも。
でも、どうしよう?どうすればいい?

困ったわ。
私、もう、人のことを嗤えない。


やっと降ろせた指先には、ヅラ子の頬の、そして唇の感触が、こんなにも鮮やかに残っている。
この、滑らかさ。この、柔らかさときたら……!


ああ、どうしよう。
私、今、ヅラ子のことを妬ましく思ってる……。


よろしければ簡易アンケにご協力下さい。


戻る