あっ、と思ったときはもう遅かった。
神楽ちゃんは、獲物に狙いを定めた猟犬のような素早さで一直線に土手を駆け下りていた。しかも辺りを憚らぬ声で「ヅラぁ〜!」と叫びながら。 神楽ちゃんの呼ばわる先には、つい最近無理矢理の様な形で顔見知りになった人が立っていて……その人のことを銀さんは「ヅラ」と呼んでいたけど……でも……あの人確か……爆弾魔のテロリストなんですけどぉぉぉぉ!


「星月夜」


「ヅラぁ、おまえ、こんなところで何してるネ?」
「ヅラじゃない、桂だ。空を見ている」
「なんで空なんか見てるネ? 馬鹿アルか? それともおまえテロリストのくせにお天気おっさんでもやってるアルか、ヅラぁ?」
凶悪犯を怒らせるようなことをしでかさない内になんとか神楽ちゃんを止めなければーという使命感で、走りに走ってようやく追いつきかけた僕の耳には残酷すぎる会話。
あくまでヅラ呼びを通す神楽ちゃんに、僕の寿命が三年は縮んだ。馬鹿呼ばわりにもう半年、テロリスト発言に更に半年、おっさんの一言で駄目押しの半年、いや、一年くらいか?
「馬鹿でもないしお天気おっさんでもないしヅラでもない、桂だ」
……テロリストは否定しないんだ。
その返答の可笑しさと大真面目に答える律儀さが相俟って、僕を不思議な気持ちにさせる。
「夕陽を拝もうと、そう思って待っておるのだ」
足された言葉がまた意外すぎだろ。
夕陽を待ってるって、なに、その発言! なんなんだよ、この人!
「今朝は酷い雨だったのが、午後からはすっきりと晴れ渡ったであろう? こんな日の夕焼けは特別なものになることが多いのでな」
「ふぅん」
気のない返事をしているけれど僕には解る。神楽ちゃんは完全に「その気」だ。特別だという夕焼けを待つ気満々のはず。
「あの〜、待つってどのくらい……」
首を長くしてジャンプを待っているであろう銀さんのことはこの際どうでもいいとしても、あまり長いテロリストと一緒にいるのは、さすがに各方面によろしくないだろう。
「なに、大して待つこともない。ゆっくりとだがもう始まっている」
指し示された西の空に目を遣れば、確かに薄い雲の縁がかすかに黄金色に輝き出していた。と思ったらすぐに、周囲に向かって徐々に黄色、朱色と赤みを増した光が徐々に放たれていく。
それだけでも十分に贅沢な眺めなのに、そこに真っ赤に燃える溶鉱炉を思わせる夕陽が降りてきて、鮮やかな色を添えながらゆっくりゆっくりと山の端へと融けていった。

神楽ちゃんは目の前のパノラマに、うわぁおーと小さく声を上げ、
「蜜柑みたいな色アルな、新八!」
怒鳴るように言う。
「や、そこは薔薇色とか言おうよ神楽ちゃん」
「ふん、薔薇なんて食えないもんに微塵も興味はないネ」
薔薇色に染まった貌で憎まれ口を叩く神楽ちゃんの目は、夕陽に負けないくらいキラキラしている。
「なんであんなに綺麗アルか、ヅラぁ?」
「ヅラじゃない、桂だ。 それはだな……」
答えかけて、なぜか言葉を呑んだ。
「……どうしてだろうな」
すぐにそう言う声が聞こえたけれど、その声音がとてつもなく優しかったことに神楽ちゃんは気付いただろうか?
テロリストはー。
……いや、桂さんは……間違いなく神楽ちゃんに教えようとしてた。どうして夕陽があんなに赤く、あんなに綺麗に空を染め上げるのか。でも、神楽ちゃんがあんまり幸せそうだったから、止めてしまったらしい。 たったそれだけのことなのに、僕はなぜだか嬉しくてなってしまった。
今だって、並んで西の空を見続ける二人の横顔を見ているだけでこんなにも。
きっと僕らはそれぞれに幸せで、その場から離れがたかったんだろう。夕陽が融けてしまったところから夜の気配が滲みはじめても、僕らはまだ西の方を眺めていた。
「なにしてんだ、おめぇら? そんなとこで揃いも揃ってバカ面下げて」
銀さんにそう声をかけられるまで、ずっと。
「銀ちゃん! 迎えに来てくれたアルか!」
飛び跳ねる神楽ちゃんに銀さんは必死で、迎えに来たのはジャンプだーと言い張っていたけれど、恥ずかしすぎるバレバレの嘘に神楽ちゃんのテンションは上がる一方。 そんな二人の様子に、僕は気付けば桂さんと顔を見合わせて笑っていた。
なんかいいな、こういうの。
そう思っていたのは僕だけではなかったようで、神楽ちゃんが今度は銀さんも一緒に星を見ると言い出した。
「おいおい、勘弁してくれよ。俺は早くジャンプが読みてぇの!」
銀さんは抵抗していたけれど、どうせ押し切られるのに決まってる。なんのかの言っても銀さんは神楽ちゃんにはーそして多分僕にもー甘い。 案の定がっちり腕をホールドされても満更でもない様子だ。ぎゃーぎゃー文句は言ってるけれどきっと目の奥は笑ってる。
そして。そんな二人にまた笑う僕と同じように桂さんも笑っていたけど、帰るそぶりを見せた途端、神楽ちゃんに拘束され星を見ることを強要された。
「すまんが俺は忙しい身でな」
「こんなところで黄昏れてた奴が忙しいなんてなんの冗談アルか、ヅラ?」
「いや、あのな……てか、ヅラじゃない桂だ」
今度は銀さんと顔を見合わせる羽目になった。案の定、どちらからともなく笑い合った。やっぱり誰も神楽ちゃんには敵わない。天下御免の無責任ぐーたら男も、世間を騒がす爆弾魔も、その二人に比べたら凡人の中の凡人の僕はもちろん。
「諦めろ、ヅラぁ。こいつにかかっちゃ俺たちは俎の鯉どころか、桃白白の前のヤジロベーだ。観念するほかねぇ」
「なんだその中途半端な例えは!」
「わたしをあんな爺ぃと一緒にすんな!」
突っ込みを入れただけの桂さんと違い、神楽ちゃんは怒声を浴びせるだけでは足りなかったようで、銀さんには鉄槌も下された。 そんな銀さんの様子を目の当たりにしてこの場を辞すという考えをすっぱり放棄したらしい桂さんと、まるで大人しくなった銀さんは
「星が出るまでくらいなら……なぁ、銀時?」
「そだな。大人はそれくらいの余裕がねぇとなヅラぁ?」
なんて仲良く言い合ってたくせに、桂さんがお決まりの、ヅラじゃない、桂だーと切り返して口喧嘩が始まった。
「うるせぇよ、てめぇは黙って黄昏れてろや!」
「貴様こそ、その口を閉じて大人しくジャンプでも読んでるがいい」
「は!? こんな暗いところでどうやって読めってんだよ!」
「煩いネ、おっさんども! 痴話喧嘩なら余所でやるアル。 もちろん、星を見てからだけどな!」
一括されておっさんたちはぴたりと口を閉じた。
その時の僕は、的外れな一括をされた二人を本気で気の毒がり、後で神楽ちゃんには痴話喧嘩の意味を教えてあげなきゃーとぼんやり考えていて、まさか後々自分の見る目のなさを痛感することになろうとは思いも寄らなかったのだけれど……。
その後もなにかと煩いおっさんどもを、神楽ちゃんが怒鳴りつけたり蹴りを入れたりして黙らせながら、僕らは四人で星を待った。
一つ、二つ、六つ……そして数えられないほどの星が空を覆い月がすっかり昇る頃には、一緒に同じものを眺めていることを専ら楽しみはじめていた僕らは、なにを待っていたのかなんてとうに忘れてしまっていて、
「春宵一刻値千金とは言うけれど、秋の宵も満更ではないな」
そう呟いた桂さんの言葉が、ひんやりとした夜気と一緒に全身染み渡っていくのが、ただ心地よかった。

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