「師に若くは莫し」 ー小太郎と銀時の場合ー


ほどなくして、銀時を連れた松陽が戻ってきた。どうやら松陽のにらんだとおりの場所に隠れていたものらしい。
松陽に従えられた銀時は、拗ねるでもなく怒るでもなく、当然、悄げるわけでもなく、のっそりと部屋に入ってきた。 その、常と変わらぬやる気のない表情に、小太郎があからさまにムッとした。
「先生がお呼びだと晋助に言われながら、隠れるとはどういうつもりだ!」
銀時が座りもしないうちに叱り出す。
「あー?だってよ、晋ちゃん小難しそうなこと言ってたじゃん。なんか面倒くせぇし」
銀時は、小太郎の小言に全く動じず、よっこらしょ、と胡座をかいて座った。すっかり叱られ慣れしているのだろう。その態度は不貞不貞しいほどだ。
「面倒くさいとは何だ!」
小太郎が一喝して、銀時の脚を叩いた。ピシャリと小気味よい音がした。
「行儀が悪いぞ!」
「ってぇな、何すんだよヅラ!」
「ヅラじゃない、桂だ!」
「だからヅラじゃん」
いつものように小さな諍いが始まった。
銀時はいつだって小太郎をヅラと呼ぶし、小太郎はその都度いちいち桂だと訂正する。

飽きませんねぇ、二人とも。

小太郎が初めて銀時に名を名乗って以来幾度となく繰り返されてきたこの遣り取りは、今や松陽にもすっかり"お馴染み"だ。

これはもう、儀式というかお題目に近いような気がするのはわたしだけでしょうか。

松陽はほとんど感心しながら二人を見守った。その優しげな眼差しに気づいて先に我に返ったのは小太郎で、ピタリと口を閉ざしたかと思えば、一段とかしこまった様子で居住まいを正した。 そんな小太郎を目の当たりしても、銀時は動じない。むしろ、小太郎のお小言がすんだとみてとって、ゆっくりと鼻をほじり出す為体だ。
その姿を見た小太郎がそっと銀時から視線を外す。俯いて、小さく溜め息を吐いた。まるで我がことのように恥じ入り、恐縮しきっているのだろう。落とした肩が痛々しい。
生真面目な小太郎は、銀時がただただもどかしのに違いない。
松陽には、小太郎が心の裡に溜め込んだ怨嗟の声が聞こえる気がする。
馬鹿野郎。お前のことをこんなに心配しておるのに。おれも、先生も、そして晋助も。馬鹿野郎、馬鹿野郎ーと。
でもーと松陽は重ねて思う。
いくら善意から出たことであっても、どれだけ正しいことでも、それが必ず相手に響くとは限らないのが世の中というもの。特にこの銀時が相手では……。

銀時はいつでも"銀時"でしかない。嫌なことからは極力目を背けようとするし、楽しいことは飽きるまでやる。良くも悪くも率直な質だ。 今回の席書きのことでも、常の銀時ならば、小太郎や晋助がピリピリしている万分の一ほども気にしていないはずだった。 松陽に与えられたお題をそこそこに練習し、迎えた当日も、その場しのぎにそこそこの字を書き上げてすっかりお終いにしてー。 それが、逃げたり隠れたりまでするのは、小太郎や晋助の尋常ならざる気合いの入れっぷりに、いずれ我が身にまで火の粉が降りかかってくるに違いないと敏感に察してのこと。
事実、小太郎は少々銀時に入れ込みすぎているのは端から見ても明白で。

銀時はこういことには鋭いですからね。恐れ入ります。

銀時に「真面目に取り組め」というのは暖簾に腕押し、糠に釘、馬の耳に何とやら。むしろ周囲が気を揉めば揉むほど、それと察した銀時は"ひく"。 この場合、一生懸命腕押しをし、釘を刺そうとし、念仏を唱えている側にその虚しさ説き、引かせる方がほうが事は円滑に進む。
が、万が一にでもそんなことを松陽がにおわせるわけにはいかない。当然、理は小太郎のほうにこそあるのだから。

さて、どうしたものでしょう。

考えあぐねた松陽がふと気付けば、銀時が俯いたままの小太郎に心配そうな視線を注いでいた。

銀時にも、あなたの気持ちは伝わってはいるのですよ。
人はつい、足りないところにばかり目をやりがちですし、一生懸命になりすぎているあなたはつい忘れがちのようですが、銀時にもむろん沢山、沢山良いところはあるのです。そう、言うではありませんか。
「柳緑花紅……」
松陽が静かに口にした言葉に、小太郎がハッとしたように顔を上げた。
「銀時には"柳緑花紅"でどうでしょう、小太郎?」
松陽に訊かれた小太郎は、しかつめらしい顔を銀時に向けた。その時、はじめて自分を気遣うような銀時の眼差しに気づいたらしい小太郎は、驚きに見開かれた目を松陽に向けた。
「わかりました。先生の仰るとおりです」
小太郎はそれだけ言い、松陽にぺこりと頭を下げた。

悟りましたか。聡い子です。

頷く松陽から笑顔を向けられると、小太郎もまた綺麗に咲って言った。
「"柳緑花紅"、全てのものがあるがまま、そのままで平等に素晴らしいというような意味だ。よいお題をいただけてよかったな銀時」
「りゅうりょくかこう?」
銀時は、いかにもぎこちない発音をする。そして一言、なんだか難しそうじゃねぇか、どうせ漢字だろ?と実に実に嫌そうに言った。
ええ、と松陽はあっさり頷いた。
「そうですよ銀時。晋助や小太郎のお題と同じくらい難しいですよ」
「なんでそんな嬉しそうなんだよ!」
あからさまにげんなりした顔をするのが可愛いらしい。
「平仮名じゃダメなのか?」
「何を言うか、漢字の方が易しいのだぞ、銀時」
「マジ?」
明けても暮れても"永"の字ばっか書かされてよ、いきなり漢字だなんてほとんど嫌がらせじゃんって思ってたんだけど?と銀時が目を丸くした。
嫌がらせ?馬鹿を言え、と小太郎は目を三角にする。
「"永字八法"と言って、"永"の字に書道筆法の全てが含まれていると言うではないか。基本だぞ、基本」
「マジでか!?」
「最初に説明したはずなんですが……。嫌がらせだと思われていたとは心外ですねぇ」
松陽が大げさに嘆いてやると、
「わ、悪ぃ……」
小さい声が聞こえた。
「では、"柳緑花紅"で決まりだ。異存はないな?」
「なんでおめぇがしきってんだよ!」
「異論があるのか?ならば言え。もっと良い字があるというなら聞いてやろう」
銀時は、なんでそんな偉そうなんだよ!と叫んでおいて、それでも、それでいいと、あっさり受け入れた。席書きのことを思い詰め、ピリピリしていた小太郎が、平素のゆとりを取り戻した効果だろう。
「では、あらぬ誤解も解けたようですし、明日から気持ちも新たにしっかり頑張りなさい」
松陽は銀時にそう命じて小太郎の方に向き直ると、
「相手をあるがまま受け止めるのはとても大事なことです。が、慈母敗子という言葉もあるように時には厳しくすることも同じくらい必要です。明日から、みっちり仕込んでやって下さい。 遠慮はいりませんよ、小太郎。手厳しくお願いしますね」
力づけるように微笑んで見せた。
小太郎が元気に頷く一方で、銀時がげんなりするのをしっかり確かめた松陽は、それとーと言い、やおら立ち上がり、庭の晋助を手招きして呼んだ。 何事かと一気に駆けてくる晋助に、松陽が一番に声をかけてやる。
「晋助、銀時のお題も決まりましたよ」
「"柳緑花紅"だぞ!」
小太郎が口を挟んできた。余程嬉しいのだろう、普段あまりないことだ。
「明日から、銀時がお題の練習を始めます。あなたも小太郎と一緒に教えてやって下さいね」
晋助は、弾かれたように元気よくはい、と応えたが、すぐに、銀時と小太郎をかわるがわる見遣やってから「柳緑花紅……」と呟いた。そして、口の端を少しゆるめた。 多分、晋助も銀時に相応しいお題だと納得したものらしい。
が、
「いいお題だが、大丈夫なのか?」
わざと不安そうに銀時に言う。銀時を煽る効果を充分に知っている、晋助らしい激励なのだろう。
案の定、銀時は簡単に嵌った。
「は?なに?その言い方?おれがちょっと本気出せばー
「なら、普段から出さんか!」
銀時を遮って小太郎が叱咤し、
「そうですね、出し惜しみはいけませんね」
松陽がなんどりと戒めれば、晋助も、うんうんと賢しげに頷いている。
「ちょ……なんだよ寄ってたかって」
銀時は、器用にも胡座を掻いたままの姿勢で後ずさりを始めた。もちろん、そんなことは小太郎が許さない。晋助も草履を機敏に脱ぎ捨て、小太郎に加勢する。
揉みくちゃになっている三人は、普段の優等生ぶりややる気のなさなどどこへやら。なかなかに囂しい。

ころころと、まるで三匹の仔犬のようではありませんか。元気で結構ですがー。

「喧嘩は外でおやんなさい」
松陽は込みあげてくる笑いを咳払いで誤魔化しながら、無理に渋面を作って見せた。小太郎と晋助は、声を揃えて
「申し訳ありません!」
言ったきり押し黙り、きちんと座り直した。小太郎は耳まで赤く染めてひたすら畏まっていたが、晋助の方はひっそりと照れ笑いを浮かべている。 そんな二人から解放された銀時は、よっこいしょと座り直すと、これは松陽の目を真っ直ぐ見てへらりと笑った。

三人三様、これで意外と気が合うらしいのが不思議というか面白いというか。

どうかいつまでも、あなたたちはあなたたちのままであって下さいね。
松陽がそう願ったとき、その願いと同じようにあたたかな春の風が師と小さな塾生たちをふわりと包み込み、そして、のどかに吹き抜けていった。






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