「軋む日常ー土方ー」


彼らは、立ち居並ぶ蔵屋敷の中でも最大の規模を誇る大邸宅を音もなく取り囲んだ。
蔵元は、天人と繋がっているともっぱらの噂で、聞こえてくる評判にはろくなものはない。市民からは蛇蝎のごとく嫌われてもいる。 本音では、彼らとて不本意ではある。が、おおっぴらに救いを求められた以上放ってはおくわけにはいかない。生憎そういう職務なのだ。
「副長、あそこです!あそこに!」
屋根を指さしながら、闇を裂くようにして山崎が叫んだ。
「静かにしねぇか!みっともねぇ声出しやがって!」
山崎に負けず劣らずの大声で叱りながら、土方もつられるようにして屋根を見上げた。
そこには、邸宅の侵入者が、既に何事かを成した後らしく、彼らをからかうかのようにその姿を現していた。
「くそぉ、あれ、わざとか?わざとなのか!?」
地団駄を踏む山崎の声を、土方はどこか遠くで聞いていた。
ありゃあ……。
「桂だ!副長、あれ、桂です!」
さっきからうるせぇぞ山崎!てめぇに言われなくともちゃんとわかってらぁ。ここにいる誰よりもな。
灯りの助けなど借りずとも、闇にくっきり浮かび上がる痩躯は紛れもなく桂小太郎その人で。その面は 紫煙の向こう側ですらなぜかぼんやりと白く輝き、彼らの目を奪う。白蝋めいた肌の白さが、闇すら煙らせているかのようだ。
彼らを見下ろす冷ややかな視線、薄く紅を引かれたような妖艶な唇に浮かぶシニカルな笑み。 遠くて見えるはずのない細やかな表情までが鮮明に見えた刹那、土方は射すくめられたかのようにその場に釘付けとなった。

「あ、待て、こら!」
またひとしきり大きな声を上げた山崎によって呪縛が解かれたときにはもう遅く、 総出で取り囲んでいたはずの桂は、現ではあり得ないような素早さできれいさっぱりと消えてしまっていた。そこにいる誰もが後れをとったことを 歯噛みする間も与えられなかった。 
「追わねぇか!とにかく散れ!」
どちらに向かえばいいかも解らず右往左往する隊士達を一喝しながら、自らも駆け出した土方だったが、闇雲に走り回ったところで 追い詰められるわけもなく、虚しく時が過ぎていく。なのに、吹いてもいない風にのって馥郁たる香りが 辺りにいつまでも漂っていて、未だ桂がすぐ近くに潜んでいるような錯覚さえおきる。そんなこと、あるはずもないというのに。
まるで、なにもかもが夢のように儚げな、そんな夜の出来事。


ト、シ……。
あの日、ちいさく、ちいさく桂が呟いた。切なそうに、なのにまるで詠うように。
土方は気付いている。それは、多分、己の名ではなく、もう一人の自分の名だったのだろうと。
それでも。
一度そう呼ばれてしまえば、響きの甘やかさに喉がつまる。心はざわめき、身体は狂おしく疼く。

その時のことを夢に見る。何度も、何度も。
柔らかな耳朶。控えめにひらかれた紅唇。とろりとした絹の髪。無理矢理首に回させたしなやかな腕。
夢の名残は目覚めてからも彼を捉えて放さない。夢と現とがいつしか混ざり合い、やがては融け合って、土方は四六時中じんわりと責め続けられる。 そう、今もまたー
夢が現か、現が夢か。

虚しい夢など見たくない。
だが。
空っぽな現はさらに嫌だ。

それでも、また……。
今日も虚ろな朝が来る。




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