「ニルアドミラリの喪失」5


帰るべき隠れ処をとうに過ぎながらも、桂はまだ町を彷徨いつづけていた。

エリザベスと、すぐさま横たわることのできる畳敷きの部屋は疲労困憊の身には何にも増して恋しい存在ではあったが、今は、それらよりも、 このつかめそうでつかめないなにかを探すことを優先したい。
明け方が近づくにつれ、人目につきやすくなるのは無論承知の上。
それでも。
一度でもこの歩みを止めれば、求めるものが一気に遠ざかってしまうような、そんな気がして。


どこで齟齬をきたした?
所詮人間のやること、常に一貫性があるわけではないーと見過ごすにはもたらされた当惑があまりにも大きすぎる。
自分に、そう思い込ませたなにかがあるはずだ。
例えば、そう、いわゆる原体験のようなものがなかっただろうか?

記憶を遡れるだけ遡り、最後に行きついたのは天人も、妬心も知らなかった幸せな幼い日々。
銀時はすでに三人の中で一番大きくて、力ばかり強かったが、今思えば本当に子どもらしい子どもだった。
だからこそ先生も、おれも、そんな銀時が___。 おれなど鬱陶しがられてもおかまいなしに、毎日毎日構い続け、いらぬ世話も焼き続け………

まて。
そういえば、同じようなことをごく最近思い出しはしなかったか?
初めて足を止め、しばらく考えつづけてみたものの記憶はぼんやりとした霞の彼方でしかなく、薄い影すら遠いままつかめそうにない。
だが。
今は時間が惜しい。
やむなく、桂は再び足を踏み出すと思考を一気に子ども時代に戻すと、そこにいる自分を再び探した。


両親や師に見守られ、武術や勉学に励む一方、子犬のように野原を駆けもした遠いあの頃。
ゆっくりと大人になる途次で暴力的に師を奪われ、初めて本物の喪失感を味わった時。
どんな時を切り取ってみても自分を見出すのは容易かった。
銀時の傍らにいたのだ。
そう、いつだって。


だが、薄氷を踏む思いと高揚感が錯綜したはずの戦の日々には?

…解らない。

思い出せない。

なぜだ?

思い出そうとすればするほど、記憶の扉は頑なに閉ざされる。


ただ、銀時が白夜叉と恐れられるようになるなか、求められるまま初めてこの身を委ねた記憶だけがうっすらと残っている。
この歪にも思える関係はそこから始まったのではなかろうか。



それにしても…………

一体なにを思い、そんなことを受け入れたりしたのだろう。
記憶はやはり曖昧で、今となってはただ不思議でしかない。
義務感だけではない、と先ほど銀時は言った。
当然だ、と桂も納得している。
おそらくは、今も昔もそれは同じはず。
だが、絆されて…などという可愛らしいものではなかったろう。
白夜叉を攘夷に繋ぎ止めておくためだけの利己心か、あるいは戦いに倦み疲れ半ば自棄になってのことか?どうせそんなところではなかったか。

いずれにせよ碌な理由ではなかったに違いない。
不鮮明な記憶はそのせいだと考えれば納得がいく、と桂は暗澹とした気持ちになった。
誰しも直視したくない過去があるものだと。
では、探し求めているこたえは贖罪だったのか。
___でもないのに、銀時を 受け入れてしまったことを無意識に詫び続けているとでも?


違う。
桂はあっさりと断じた。
同じことを繰り返しては罪を重ねるばかり。
贖罪になどなるわけもない。


だが。
本当に同じ、なのか。そう言い切れるなにを自分は知っているというのだろう。
今の自分が解らない上に過去の肝心な記憶さえ曖昧ならば、なにをもって同じであるか否かを判じられるというのか。


やはり。
どうあっても思い出さねばならないらしい。
どれだけ厳重に封をしている、もしくはされている記憶であっても。


ふう、と桂は肩で小さく息をつくと、我知らず自嘲めいた笑みを浮かべた。
なんの根拠があってそういう結論に達するといえるのか。

解らない。
だが、考えの道筋がはたして理屈に合っているのか、それとも理屈をこねているだけなのか判然としないほど思考が空転している自覚はあってのこと。
それでも、どうしても思い出さなくてはならない気がする。
その思いが強迫観念ともいうべき押しの強さで桂に迫ったが、それよりもなによりも、己が思い出したくてたまらないのだ。


思い出そうと足掻けば足掻くほど、こめかみを真綿で締めつけられるような痛みが襲う。
あたかも思考を逸らせようと恫喝するかのように徐々に増す痛みの中で、桂は諦めない。
どんな嫌な過去であっても思い出せさえすれば、このあやふやな心持ちから抜け出すための一筋の光明となるに違いない。
どれだけか弱く、頼りなげなものであっても その片鱗さえつかめれば!

さぁ、今こそ思い出せ。
目を逸らすな。
逃げていてはなにもはじまらぬ!


ますます痛む頭に度々思考を鈍らせられながらも、桂は必死で抵抗を続ける。
冷や汗が背中をつたい、全身が回顧を拒み始めても、錫杖をかたく握りしめ ふらつきそうになる姿勢を真っ直ぐに保つ。
逃げない。
そう決めたのだから。
祈りにも似た強い思いで、桂は念じる。
思い出せ、思い出せ、思い出さねばならないのだと。



やがて。
その願いが天に通じたかのように、ゆっくりと登り始めた朝日の眩い光に両の目を射貫かれ、桂は天啓を受けた者のように立ち竦んだ。

目を刺した光の強さに奪われた視界の分だけくっきりと脳裏に浮かんだのは、たった一つの情景。

今より年若の銀時が、いかにも心配げな様子を見せている。
朝日?を背にしているせいで実際は銀時の表情はよく解らない。
だが、桂はなぜだかそうだと直感し、しかもその視線が注がれている先にいるのは自分であると確信した。


大丈夫だ、銀時。
お前は心配などするな。
言ったであろう?
おれは………

桂は不安げな銀時に、届きもしないいたわりの言葉をかける。
それは今の桂の偽らざる気持ちであり、銀時の視線の先にいる桂の 気持ちでもあるはずの…。


ああ、忘れていたのはこれだ。

桂は笑い出した。
なんとか抑えてはいるが、これが街中でさえなければ大声をあげて腹を抱えて笑いたいほどだ。


そうだとも、銀時。
義務感だけでやっておれるものか。

すれ違いざま、不思議そうに見る者もいたが、桂はくすくす笑いを止められない。

やっと思い出せたのだ。


おれは銀時に約束したのだ。

かまわんよ。
おれにできることであれば。
おれはなんでもしてやる。
おまえのためであればこの身など、いつでも差しだしてやるさ。

おまえがそう望むのであれば、と。


おれはただ、約束を守り続けただけのこと。
今も、昔も。


思い出してみれば、ごく単純なこと。
おれが白夜叉を求めていたのは間違いない。
それは断言できる。
だが、白夜叉だけではなく、むしろ銀時を必要としていたのだ。
ただ「捨てられた」という痛みから逃れたくて、始まりからの全てを曖昧に暈かしてしまっていただけのこと。


なんと愚かなことか。

今ならこう思えるというのに。

おれなどよりも余程、おれを捨てねばらななかったおまえのほうが苦しかったに違いないと。

先ほど脳裏に浮かんだ銀時のあの視線が、確かに、かつて自分に向けられたものであったことを思えば!


銀時が自分に抱いた感情と、己が銀時に抱いた思いは同一のものではなかったかもしれない。
けれど、互いを思い遣り慈しむ心はあった。
必ず。

そして多分、今も………。


思い出すことすら許さず、忘れ去ろうとしていたその思い。
やっと取り戻したこの思いをどう呼べばいいか、どう名付けるべきか、桂には解らない。


だが、それをしも人はこう呼ぶのだろう。


愛、と。