「煙管と煙草」

開け放たれた唐紙の外から、この季節には珍しいほどの爽やかな風が入ってくる。心なしか日差しも柔らかで、真新しげな畳表の青さをいっそう引き立てているようだ。
「こりゃなんとも清々しいじゃねぇか」
土方が思わず感嘆の声を上げると、「で、あろう?」滅多にないことに部屋の主も頷いた。同意するその声音はいつになく優しく、口元には笑みさえ浮かんでいる。珍しいこともあるもんだ、 と土方が感心したのも束の間、「貴様がいなければな」ときた。「芋」と付け加えるのも忘れない。
そいつは悪かったな、と肩を竦めて土方は腰を下ろし、部屋の片隅に置かれている煙草盆に目をやった。
際だって蒔絵の美しいそれは、清潔ではあるが簡素な部屋には不釣り合いな瀟洒な造りがいかにも洒落者好みで人目を引く。
「いい品だな」
桂は何も言わない。貴様になにがわかる?そう言いたげにシニカルな笑みを浮かべるだけ。
確かに、土方に品の善し悪しなど解ろうはずもない。が、これを用いることを想定されている人物に心当たりがあり、その人物がかなり酔狂な伊達者だと知っているだけのこと。 それに……。
「なのに刻みが龍王とくる。変わった趣味じゃねぇか。おれは国分の上物のほうが余程似つかわしいと思うんだが……どうだ?」
水を向けられた桂は、"だからなんだ?"とばかりに片眉をわずかに上げただけ。表情にこれといった変化が見られないのはさすがだが、隠しきれなかったらしい探るような目つきに、土方は胸のすく思いだ。
ふん、驚いたか。ざまぁみろ。おれだっていつもいつもやられっぱなしじゃねぇんだよ。
袂から煙草を取り出そうとしていた手を止めて、土方は桂の挑戦的な眼差しをまっすぐ捉えた。そうしてたっぷり間をおいてから、にやりと笑って見せた。


土方がそれを初めて見咎めたのは、無理矢理に近い形ではあったが桂の隠れ家に初めて上がり込んだとき。かれこれ半年ほど前のことだ。
拭き清められたばかりとおぼしき畳の上の小さな丸い焦げ痕。真っ先に煙草での失錯を思い浮かべたが、真円に近いその形から、すぐに煙管の灰と判断を変えた。
部屋の片隅にひっそりと置かれていた煙草盆もそれを裏付けているように見えた。その時目にしたのは、今、土方が見ている煙草盆とは違うものだったが、 それでも精緻な細工は同じ。しかも添えられている煙管ときたら、贅沢な銀煙管。ご丁寧に羅宇まで銀尽くめという逸品で。 煙草を喫まない桂の、しかも簡素を絵に描いたような居室にあっては、いかにも不釣り合いな品々に、土方はまず、もやもやとした居心地の悪さを感じ、 その正体が違和感ーその場にあるはずのない、もしくはあるべきではないものが存在する気持ち悪さーだと気づくまでにそう長くはかからなかった。

それからも、次々に変わる桂の隠れ家で、それは容易に見つかった。煙草盆は見あたらないこともあったが、畳の上の焼け焦げは、 奥座敷と呼べるような大きな屋敷の部屋だろうと、裏長屋の四畳半程度の狭い室内であっても、およそ桂の居室と思われる場所には必ずあった。 それも決まって、例え名ばかりとはいえ上座とおぼしき場所ばかりでだ。
ひょっとして、わざとやってんのか?
それと気づいた土方が、誰の仕業かと気に掛けるようになったのは当然のことだったろう。
まず、いくら仲間内であったとしても、党首である桂本人がいながら上座に座れる者などそうはいまい。なにより、わざと煙管の灰を落としながら、それを許される続けている者などが。
しかも、常に土方に先んじて桂の元を訪なっていることから鑑みて、その人物は、桂から直接的にしろ間接的にしろ、宿替えの知らせを受けている可能性が高い。 そんな特別扱いが許されている人物。そして、それを畳を焦がすという児戯にも等しい行為でもって誇示しようという悪趣味な人物とは?
高じた疑問がやがて嫉妬へと変わり、ついに土方をして焼け焦げから灰を採取して鑑識させるまでに至った。結果、鮮やかに浮かび上がった正体があの高杉晋助だったのだが、 だからといって何が変わるわけもなかった。土方は、格別驚いたりましてやがっかりすることもなかった。ただ、高杉ならやりかねない、と、あの痕はやはりわざとに違いないと、そう確信はした。
龍王、それが採取した灰から知れた刻みの名。龍王は安価故に喫む者は少なくないが、あえて好んでまで喫む者はそうはいないときく。 財布さえ許せば、大方の者は国分の最高級品とまではいかなくとも、舞留や舘などを求める。そういうものらしい。なのに。あの手の煙草盆を使う人物の好みにしては、かなりちぐはぐすぎな印象ではある。 が、だからこそ、高杉ではないかとの土方の判断に繋がった。

未だ相まみえたことこそないが、高杉が関わったとおぼしき事件の調書や手配書等から、その人物像を推し量ることは容易い。 それらを熟読玩味しなくとも概要さえ見れば、高杉がいかに派手好みであるかは難なく読み取れる。そんな男がひけらかしをも好むのは、むしろ自然なことではないか。
わざわざ龍王などという刻みを選ぶ感性もまた、土方の抱く高杉像にピタリと嵌る。 国分を嗜むだけの器量を持ちながらのその選択。 辛みの強い風味をではなく、龍王という名前そのもの、また、異称である「鬼殺し」をも気に入ってのことではないか、と土方には、どうもそんな風に思われてならない。 いかにも、小さな焦げ痕を残すことで悦に入るような人物に似つかわしい嗜好といえないだろうか。
ひょっとして、と土方は更に思わざるを得ない。高杉は、桂の、あの白磁の肌に残したはずの徒花の数々をこそひけらかしたいのではないか、と。煙管の灰などでは全然足りず、本当は旗でも立てて誇りたいのではないかと。 全ては己の邪推に過ぎないのだと自戒しながらも、いかにもありそうなことだと思い、土方はそんな高杉の性情こそを憎んだ。
むろん、土方とて、高杉が誇りたい相手が自分だと思えるほど自惚れてはいないし、嫉妬に狂ってもいない。それでも、憎いものは憎い。 だから、なんとしても高杉に思い知らせてやりたくてたまらない。全ては独りよがりな思い上がりだと、高杉もまた、自分と同じ「当て馬」にしか過ぎない身なのだと。 所詮は、桂がこの世で一番愛し、一番憎んでもいる男への意趣返しの道具にしか過ぎないのだと。しかも、その役を担っている特権は一人だけのものではないということを。 高杉本人が、それを知っていようがいまいがどうでもいい。それは、虚仮にされて続けてきた土方なりの仄暗い意趣返しなのだから。

今こそ、好機だ。
今度こそ懐から取り出した煙草に火を点けながら、土方はほくそ笑んだ。
先ほど、土方が桂に「清々しい」と言ったのは、涼やかな風や日差しののどけさのことではない。今回ばかりは高杉に先んじることが出来たらしく、あの忌々しい焦げ痕がどこにも見当たらないという、そのただ一点。
だからー。

「おい、貴様なんのつもりだ!?」
桂の咎める声がぼんやりと聞こえる。驚いているのか怒っているのか、尖った声だ。
ああ?今更なに言ってやがる。高杉の振る舞いを許している時点でてめぇも共犯だろうが。奴に許してるんなら、おれにも許しやがれ。
土方は桂に見せつけるよう、ゆっくりした動作で煙草を畳に押しつけた。ジジッ、と火種から小さな断末魔の叫びがあがると、畳が焼ける匂いが立ち上りはじめた。土方のよく知る、苦い、苦い匂いだ。




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