ではな、芋侍
まるで気心の知れた友に別れの挨拶をするかのように、ひょいと片手をあげながら
軽く告げて消える。
その白い面にはどこか笑みさえ浮かべて
後には、照らすものを失った煌々たる月明かりが……
「雨夜の星のごとく」前篇
「あら、そのご様子じゃ、また逃げられちゃったんですねぇ」
「人のことが言えた義理か」
不首尾に終わった捕り物で今日を終えるのは胸くそ悪ぃ、と足を向けた馴染みの小料理屋。
まだ深夜には早過ぎる時刻だというのに、店の中は閑散としている。
元々大勢の客で賑わうような店でなく、むしろ隠れ処的な秘やかさが売りの店ではある。が、それにしても今夜は格別に客が少ない。正確には、今やっと一人の客ー土方ーが足を踏み入れたに過ぎない。
文字通り女将の他には誰もいない。
そのことに内心ホッとしながらも、つい嫌味めいた言葉が出てしまった。
「はいはい、しけてるのはお互いさまですよぉ」
しかも、どうやら答え方までがぞんざいになっていたらしく、女将は苦笑混じりの笑顔
を見せた。普段から年齢不詳の女将だが、元々の人の良さそうな柔和な顔つきが笑むことによって急に何歳も若返って見える。
思ってた程の年じゃねぇのかもしれねぇな。
土方がそんなことを考えていると、あろうことか当の女将がさっさと店から出て行ってしまった。
「おいおい、せっかく客が来たってぇのにえらく愛想なしじゃねぇか」
思いがけない女将の行動に少々狼狽えながらも、土方は先ほどの埋め合わせをするかのように努めて明るい声で話し掛けてみる。
「やめて下さいませよぉ、そんな大きな声で人の悪口を言うのは。外にまで聞こえるじゃありませんか」
「聞かせようとしたんだよ!あんたが外に出て行っちまったから……」
すぐに応えてきた言葉にホッとして軽口を叩こうとした途端、店内に戻ってきた女将の姿を見てとった土方は話をやめた。
「愛想なしの店ですからね、今日はこれで店仕舞い。ゆっくりしてって下さいませよぉ、たった一人のお客なんですから」
土方の視線に気付いたのだろう女将は優しくそう言うと、両腕で抱え込んでいた暖簾をさっさと片付け始めた。
「すまねぇな、気ぃ遣わせちまったみてぇだ」
「気なんか遣ってませんよ。だって、そんなしけた顔で座ってられてちゃ、せっかく来てくれたお客もすぐ帰っちゃうに違いないですからね」
だからーいいんですよぉ
まるで土方に言いきかせるようにゆっくりとそれだけを言って、それきり女将は黙り込んだ。
女将が黙ると急に店の中の静けさが身に染みてくるような気がして、土方は慌てて煙草を取り出して火を点けた。
カウンターの向かい側で女将が茶の準備をしているのをぼんやりと目の端でとらえながら、意識は自然、煮え湯を飲まされる形で打ち切られた捕り物へと飛んでいく。
文字通り忽然と目の前から姿を消された。
さんざんその周辺の捜索を続けたものの、
桂はおろか、あのバカ目立ちするペット1匹見つけられなかったのだ。
惚れたはれたは関係なく、一旦反捕り物となったら土方は相手が桂であろうと常に全力で追う。
やむなくーというより半ば自棄になって隊士達を解散させ、すごすごと引き上げてからまだ半刻あまり。
屯所に帰る気も失せてそのまま足を向けたこの店の暖簾をくぐるなり、女将に先ほどの不首尾を言い当てられてしまった。
ひょっとして、顔に出してんのか?
「情けねぇ…」
「そんなことないですよぉ、今までだって何度もちゃんと捕まえてらっしゃるじゃないですか」
「その何度も、がまた問題じゃねぇかよ」
女将は、土方が紫煙とともに思わず吐き出した愚痴を、桂を取り逃がしたことを言っていると勘違いしたらしいが、わざわざ訂正するもの妙だと思い、土方は女将の誤解をそのまま受け流した。
「そう言われてみれば…そうですよねぇ…本当にごめんなさいませよぉ…」
女将はすぐさま謝罪の言葉を口にしたが、そこにあるのはいつも通りの優しさと甘えを強調するかのような抑揚だけで、これっぽっちの真意も含まれてはないだろうと何故か土方はそう感じた。
そもそも江戸の庶民の大半は、桂ーというより穏健派の攘夷志士に好意的に思える。この女将も御多分に漏れずそのお仲間なのだろう。
真選組に限らず、桂を捕まえたことのあるいわゆる「御上の側」は、こういう反応には慣れっこになっている。
中でも顕著なのがマスコミの反応だ。あらゆるメディアが桂小太郎捕らわる!のニュースを流しはするが、桂小太郎を召し捕った!という報道はなされない。
反体制が売りのちょっと尖った局などは、あからさまに「今度は何日で逃げられることやら」と面白可笑しく取り上げたりする始末。
そうして実際桂が脱獄したとなると真選組が表立って批判の矢に晒されるのだが、それは責任を問うての糾弾を装った、してやったりとばかりの揶揄でしかない。
「ひょっとして、あんたも桂やその周辺の攘夷志士のシンパかい?」
「はい、お待たせ。お口に合えば良いんですけどねぇ」
女将は土方の問いには答えず、こしらえたばかりの膳を土方の前に置いた。
そのまま店の奥に戻る女将の後ろ姿を見ながら、仮に先ほど話しが聞こえていたとしても、自分が真選組の副長だと知りながらーしかも今夜は隊服のままだー、攘夷志士達のシンパだとは流石に言うわけがないことに土方は遅ればせながらに気付いた。
土方としては何気なく問うたつもりではあったのだが、さぞ答えづらかろう。
また、やっちまったか
気まずさを取り繕うかのように飲みたくもない茶を一気に啜ると、土方は目の前の食事に集中することにした。
ここの女将とは、土方丼スペシャルを置いてくれと頼めるほど懇意な間柄ではないが、一人暮らしの男が口にする機会が滅多とないような手の込んだ煮物などをあれこれと見繕って出してくれるところを気に入っている。今も、そのどこか懐かしいような田舎くさいような料理に箸をつけながら、土方は、こんな料理を得意とするような女はやはり随分年かさなのではないかと思い始めていた。
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