「雨夜の星のごとく」後篇
土方が店を出た時には、満天の星が出迎えてくれていた。
屯所までの短くはない道すがら、土方は慎重に女将に聞かされた話を反芻してみる。
どれもが耳に痛く、お陰で食事をした気がしないのが困りものだが、それでも、江戸に住まう者たちの本音の一端を知ることが出来て良かったと思おうとしていた。
それでも腹立たしいことには違いない。腹立たしい、とても腹立たしい。
けれど、女将は本音はどうあれ最後にはこうも言ってくれたのだ。
仕方ありませんよぉ、土方さんが真選組である以上、あの人達を捕まえようとするのは当然ですからねぇ、と。
そうして土方は女将に答えたのだ。
当然だ。それは今の法と秩序を護る為に必要なことなんだからな、と。
「はいはい、精々頑張って下さいませよぉ。次は逃がさないようにしませんとねぇ」
「おい、それはねぇだろうよ…」
うふふふふ、と悪戯っぽく笑う女将は子どもみたいに楽しそうで、土方は先ほど随分年嵩だと思い始めた女将の年齢を、思い切って十程下げた程。
女将は
あの女将は何を、誰を失ったのか。
息子、か?それとも良人だろうか?
あの戦で…
頭の中では色んな思いや記憶が忙しなく浮かび、そして消えていく。
なのに、戦のことだけが消えない。
土方の思考に食らい付き、離さない。
土方が意図的に意識を逸らそうとしても、しぶとく隙をうかがって顔を出す好機を狙っているらしい。
やれやれだ……
紫煙の代わりに溜息を一つだけ漏らし、土方は全面降伏することに決めた。
攘夷戦争…
長きにわたった国運をかけた戦い。
その渦中ではどれだけの人間が命を失い、あるいは親しい者を失い、運命を狂わされてしまったのか?
そうして、どれ程の悲しみや憎しみを今に、そしてこれから先に残していくのか?
ーぞくり
土方は今までに感じたことのない感情に囚われた。それは恐怖ではないが、それでも限りなくそれに近い感情のように思え、そんな感情を抱いた己に土方は初めて恐怖した。
だめだ。
これ以上考えちゃなんねぇ。
囚われるな!
これ以上は危険だ。
過去は、過去でしかねぇ。
そう、今だけを見ろ。大事なのは、今、だ。
そして、今
おれは真選組の副長…いつだってそれを忘れちゃならねぇ。
くそっ
なんだってあんな話になっちまった?
おれが何をしたってぇんだ?
いつしか腹立たしさだけが土方の中で大きく脹らみはじめ、やり場のない怒りを八つ当たり出来そうな相手、理由を探し始めている。
おれがあの店に行ったのが悪かったのか。
他に客が居なかったのが災いしたのか。
いやいや、やはり一番はあの女将が気を利かせて…………………かいてはいないはずの冷や汗を全身に感じながら、ここにいたって土方は、女将が暖簾を下ろしたのはなにも土方の為ばかりではなかったのかもしれない可能性に、遅ればせながらに気付いた。
一度、こんな話を聞いていただけたらと思ってたんですけどねぇ…だと?
ちっ、やりかねねぇなぁ…
ここは歌舞伎町、侮れねぇ。
やっぱ、老獪なばあさんに違いねぇ。
馬鹿馬鹿しい。
やはり桂を逃がしたのが運のつき始めか。
ある種の諦観とともにそう結論づけた土方に空までが追い打ちをかけるように、いつしか雨を降らし始めた。
ちっ、とことんついてねぇ。さっきまでばかみてぇに沢山見えた星はどこに行きやがった。
桂みてぇにいつの間にか消えちまってやがる。
桂
時を追うごとに激しさを増していくような雨に打たれながら、土方の無意識下の意識は次のターゲットを桂にしぼる。
冷たい雨が、微塵も靡かぬ想い人を思い起こさせたかどうかは土方自身にも解らない。が。
こんな夜にはあいつも大人しくしてるだろうよ。もっとも、穏健派に鞍替えしてからは奴自身にそれほど危険性はねぇだろうがな。
「いつの頃からか穏健派になってくれて、本当によかった、そう思ってるんですよぉ」
女将のあの言葉が鋭く胸を刺す。
いつの頃からか、だと?
そんなアバウトなもんじゃねぇ。
おれは知ってる気がする。
ああ、知ってるとも。
池田屋の騒動。
確かにあれ以来、桂一派はすっかり穏健派になり過激な革命行動からは手を引いた。
数多の反発を受けながらそれでもその姿勢を崩さず、逆に過激行動にはしりがちな志士たちの
防波堤にもなっている。時には武力で押さえつけることさえも。
たとえ相手がかつての同志高杉であっても同じこと。
体を張って止めている…と。
桂をそうしたのは、そう変えたのは………
土方の脳裏にやる気のない目をした男の姿が小憎らしいほどハッキリと浮かぶ。
奴は、奴こそ何をしていた?あの戦の時に。
いまでも木刀をぶら下げてるくらいだから、かつては一端の侍だったってぇか?
桂のように?
たとえそうであったとしても、それでも、やっぱりおれには関係ねぇことだ。
過去は過去。
そんなことはあんただって充分に知ってんだろう、女将よぉ?
どんだけ悔やんでも、どんだけ懐かしがっても昔なんざ戻っちゃこねぇんだよ!
だが
こっちはそうはいかねぇ。
奴との勝負は始まったばっかりなんだよ。
けれど
もし
もしも
いつか敵同士という立場を離れることができたとして…一人の男として桂に向き合える日が来たとして、あの男を相手にどこかに己の優位があるだろうか?
くそっ!!
何かに縋るように土方は空を見上げた。
そこにあった答えはただ
雨夜の星のごとく
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