雪中花 後篇

「それで?」
「それで…ってなんだ?」
「さっき、仕事がどうとか言っておったではないか。あの御仁達が居ては話しづらかったのであろうが?」
「ああ…」

土方は、先ほどまであの男達が入っていた辺りで湯に漬かっていて、桂は向かい側で肩まで確り浸かりながらそんな土方の方を真っ直ぐに見つめている。
おれはこいつの目だけを見てりゃいいんだ。
目のやり場に困ることを何より恐れていた土方は、結局桂の顔から目をそらさないことでやり過ごしている。
今のこいつは眼福なんかじゃねぇ、ただの目の毒だ。
「先ほどの者たちに関係があるのか?」
土方の内心の葛藤など知るよしもない桂が淡々と話を続ける。
「ああ」
「歯切れが悪いな、芋侍」
「誰が芋だ!…実は、つまんねぇ話なんでよ…」
「そうなのか?」
「ああ」
「ならよい。挙動が不審だったのでな、少し気になっておっただけなのだ」
「挙動不審?どんな風にだ」
あいつら、こいつになんかしようとしたんじゃねぇだろうな、と気になった土方は思いがけず強い口調で桂に問うていた。
「こそこそと固まって入ってきたと思ったら、碌に会話もせずに湯に漬かったままおれをじっと睨んでおったのだ。幕府の狗とも思えぬし、ちと不思議でな」
睨んでたって?
あの視線をそう受けとる桂の感覚が土方にはわからない。
「まったく、この温度で湯中りするまで頑張るとは。何がそう気になったというのか…」
「これだけ熱いんだ、湯中りもするだろうよ」
「いや。これだけ熱いと、普通は耐えられずに湯中りするより前に風呂を出る。湯中りは長時間湯に漬かることで起こるのだから、適温の湯のほうが危ない。心地よくてつい長湯してしまうでな」
「こんな熱い湯に、てめぇは何でこんなに長く入ってられるんだ?鈍いのか?」
あの男たちも相当頑張ったに違いない。それよりも先に風呂に入っていたはずのこいつがなんでこんなに平然としているのだろう、と土方には不思議で仕方がない。
かく言う自分も意外と頑張ってはいるが限界は近い。それでも、今先に風呂から出るのは拙い。てかやばい。
「む。鈍くない、桂だ。おれは子供の頃から熱い湯でも平気だっただけだ。それに、ここは少々熱くとも長居するだけの価値がある」
「はぁ?どこが?」
それって、結局ガキの頃から鈍かったってだけじゃねぇのか、と思いながらも桂の言う”価値”がなんのことやら土方には全く解らない。激しい風に舞う雪が屋根の外にあるものは碌に見せてくれないというのに。
思いがけず、つい自分が小首を傾げそうになって土方は慌てて止まった。
危っぶねぇ〜。こんな仕種が似合う男なんて世界中探しても目の前のこいつしかいないだろうによ。
「この匂いに気付かぬのか?」
「匂い?」
土方は目を閉じて、意識的に深呼吸をしてみた。
「…あ」
「わかったか?」
「あ、ああ」
嬉しそうに言う桂の笑顔をまともに見ていられず、土方は思わず目をそらしそうになりながらも頷いた。
「水仙だ」
言われてみると、なぜ今まで気付かなかったのかと不思議に思うほどの水仙の香りが周囲に満ちている。この風に負けないで匂いを振りまいているのだから、一体どれくらいの数が咲き誇っているのか。それとも見えないからこそ、余計に強く感じるのか。
「姿が見えぬ分、より香りが増しているのかもしれんな」
土方の心の裡をよんだかのように桂が言う。
「いい匂いだな」
「であろう?」
「なんでてめぇが自慢げなんだよ」
自分を褒められたかのように得意そうに言う桂がおかしくて、土方はつい憎まれ口を叩く。
またむくれさせるかと思ったが、桂は一向に気にする風でもなく、ただ嬉しげに微笑んでいた。
ん、だよ。調子狂うぜ。
靄がかかったような湯煙のすぐ向こうで嬉しげな様子の桂と噎せ返るような水仙の香り。さっきの男たちに抱いていた不快感はいつの間にか霧散し、土方は心の底からの心地良さを堪能していた。
「じゃ、そろそろおれは出ることにしよう。貴様はゆっくり堪能しろ」
そう言って、桂が湯から出ようとするまでは。
おいおい、勘弁してくれよ。
咄嗟に目をつぶり下を向いたものの、あいにく耳は閉じることが出来ない。
ちゃぷちゃぷという規則的な音がする(湯の中を桂がそっと歩いているのだろう)。音だけでなく、ほんの小さな細波が土方の肌に当たり、それが事実であることを告げてきた。
まだだ、まだ目を開けるんじゃねぇぞ、おれ!
ちゃぷん、という少し大きめの音がして(桂が湯舟から上がったらしい)、ひたひたという足音が聞こえ(脱衣所まで歩いているはずだ)、扉を開けたと思ったらすぐに閉じる音がして………それきり桂の気配は消えた。
それでもゆうに50はカウントしてから、土方は恐る恐る目を開けてみる。
目の前には、さっきまで桂の背後に隠れていた岩肌が見えるだけ。
なんてこった。音だけでこんなに落ち着かない気持ちにさせられるなんてよ。
先ほど桂が言った言葉が思い出される。
姿が見えぬ分ーか。
さっきの男たちも、期待に胸膨らませて目を懲らしているだけで充分幸せだったのかもしれねぇな。
そう思うと腹立たしさが新たにこみ上げてきたが、「いい加減遅っせーよ」という聞き慣れた声が耳に入るまでは、それでも土方とて負けず充分幸せだったことに遅ればせながら気付かされた。

「なんだ、こんな所まで?」
「こんな所まで風呂に入りに来るてめぇが言いますか?ったくよぉ、目が覚めたら部屋にいねぇし…」
「心配して来てくれたのか?」
「誰がてめぇの心配なんかしますかってーの!」
「む。では、なんだ!」
軽い痴話喧嘩は長引き、土方は聞きたくもない会話をまたしてもしっかり聞き取ってしまう己が耳を呪う。
「露天風呂で湯中りして倒れた奴がいるって聞いてよ」
「おれはそんな間抜けではないぞ」
「わーってるって。ヅラ君鈍いから熱い湯平気だもんね」
「ヅラでもないし、鈍くもない。桂だ!」
「あー、はいはい。てめぇは無事でも、周りの人間に超ご迷惑っつーことがあっからね、一応様子を見に来たの」
「誰が迷惑などかけるものか」
「ひょっとして倒れた奴って、おめぇ一緒に風呂にいたんじゃねぇの?」
「…おれの目の前で倒れた…」
「ちょ、やっぱ犯人はおめぇじゃねぇか!」
「誰が犯人だ、誰が!」
「おめぇがいると変な誤解で長湯する馬鹿とか、湯から上がりたくても上がれない馬鹿がいんの」
「…訳がわからんぞ」
そこはちゃんとわかっとけ!と上がりたくても上がれなかった馬鹿の一人である土方が、ようやく飛び込んだ脱衣所で突っ込みを入れる。
「とにかく、昔っから言ってるでしょ?湯浴みしたり水浴する時は必ず言えって。一人で入るなって」
昔、という言葉が土方の胸を刺す。
「貴様、まだ人見知りが直っておらんのか?」
「なんでそういう話になんだよ!」
「昔からおれがいないと他の者と一緒に湯に浸入るのを嫌がっていたではないか…いい年をしてまだ直っておらんとは」
「だぁーっ!もう違うって!」
だいたいの話はよめた、と土方は思う。
今夜と似たようなことは桂の周囲では日常茶飯事だったのだろう。何も気付かない鈍い桂を、あの男が側にいて目を配ってきたんだろう、と。
「もう人見知りでもなんでもいいから部屋に帰ろうぜ。結構冷えてきたし」
「だから貴様も今から風呂に入ればよいのに…もう一度一緒に入ってやるぞ?」
「いいんですぅ。おれは今からヅラ君に暖めてもらうから」
「おれは湯たんぽではないぞ」
「湯たんぽなんて抱え込んで寝たら火傷するじゃねぇか」
「む。抱き枕でもないぞ」
「そうですね。抱き枕だったら………」
二人は痴話喧嘩を続けたままやっと宿へと戻りはじめたらしく、声が段々と遠ざかっていく。時折、「貴様!」という桂の声が遠く上の方から降ってきた。

声が充分遠ざかるのを待ち、やっと宿への階段を上がりながら土方は、そういえば何故桂がこんな所にいるのかを聞きそびれたことに気付く。
聞いても答えちゃくれねぇだろうが…。しかも、まさかあの野郎と一緒だったとは。
「なんだってぇんだ…今日は。聞きたくもねぇくだらねぇ話ばかり聞いちまった。これじゃ、踏んだり蹴ったりじゃねぇかよ!」
誰にともなく呟く土方の声は雪と共に風に舞い上げられ、姿の見えない水仙の群れにさえも届かなかった。


戻る目次へ