「昨日は今日の記憶」

銀時、と挙げかけた、その手の行き場を見失った。
ーあれは、銀時なのか?
見慣れない作業服らしきものを着ている男の姿に、桂は自問する。

万事屋のこどもらが記憶を失ったという銀時を伴って桂の元を訪れてから、もう十日が過ぎようとしていた。 その後、特に様子を見に行くこともなく放っておいたが、向こうから来る男の様子を見るだに、まだ記憶は戻っていないように感じる。
銀時でないなら、会わぬ方がよい。
素知らぬ顔で横道にそれようとしたが、当の男は既に桂を見付けていたらしく、はにかむような笑みを浮かべて丁寧に頭を下げてきた。人通りの少ない時刻なのが災いしたらしい。
記憶を失っても、おれを見つけるのが上手いのは変わらんのか……。
こうなっては逃げるわけにもいくまい。
微笑みを浮かべたまま自分に近づいてくる男に、桂もまた丁重に頭を下げた。

「確か、桂さん……でしたか?」
歩み寄ってきた男が遠慮がちに訊いた。その穏やかな口調に銀時らしさは微塵もない。
「そうだが」
愛想の欠片もない物言いに、誰より桂自身が驚いた。
「すまん。その……銀時はおれをそんな風には呼ばんのでな」
驚いたのだーと下手くそな、それでも半分以上は本当の言い訳で取り繕う。
「そう……ですか」桂の非礼を咎めるでもなく、男は戸惑ったように「では、ぼくはあなたのことをなんと呼んでいたんですか?」真っ直ぐに訊いてきた。
「ヅラだ」
言いたくはなかったが、隠すのも妙なので正直に教えた。
「ヅラ?」
よほど意外な答えだったらしく、男が文字通り目を丸くする。
「そうだ」
男はなんでまたーと言いかけて、ああ!と得心がいったような顔で「桂さん……だから、ヅラですか」生真面目に、とらないでもいい確認をとる。
「ヅラじゃないけどヅラだ」
嫌々認める桂には何が可笑しいのかさっぱりわからないが、男は僅かに頬を綻ばせた。
あまり見ん表情だな。
やはり、記憶をなくすということは別人になってしまうに等しいようだ。
弱々しいながらも笑みを浮かべ続ける男と対照的に、桂の表情は曇っていく。そんな桂に気付いたのか、男は笑みを引っ込め「……すみません」と呟いた。
「なぜ謝る?」
笑んでいる男の気持ちもわからなかったが、謝る気持ちもまた、桂にはわからない。男はなにも悪くはないのに。
「……なんだかあなたを苦しませてしまったようで」自分こそが辛そうな様子で申し訳なさそうに言うと、男は謝罪の言葉を繰り返す。
おれが?
苦しんでいるように見えるのか?
「そんな自覚はなかったが……貴殿にはそう見えたのか……」
男は小さく頷いた。心から申し訳なさそうな様子なのが、辛い。
「そうか」
「大事な人、なんですか?ぼく……というか銀時さんは?」
記憶がないというのは恐ろしい。銀時なら死んでも訊けそうもないことを平気で訊いてくる。
「たしか、あなたの舎弟とか?」
以前ついた嘘を未だ信じているらしいことに驚くより先に、自分のことをあえて「あなた」と呼び続けている男の気遣いに、桂はやっと気がついた。
おれとしたことが……。現状に一番戸惑い、苦しんでいるはずの者に気遣わせるなどと。
これではいかんーと気を引き締め直し、「あれは冗談だ」なんとか笑顔を作り、努めて明るく言った。
「冗談、ですか」
抑揚のない声で訊く男を納得させるように、桂はああ、と大きく頷いてみせる。
「そう……ですか」
心なしか落胆の色が籠もる声。訝しげな桂に「いえ、それも悪くないと、そう思っていたので……」悪事を白状する子どものようにぼそぼそと言う。
「生憎、おれと貴殿はそれほど親しくはなくてな」
「そう、なんですか?」
「ああ、そうだ」
後で銀時が知ったらなんと言うだろうと思いながら、桂はだが、嘘ではないとも思っていた。”以前ほどには”をうっかり言い忘れただけだと。それに、自分はおたずね者。関わることでこの男にまで累が及んでは気の毒だ。
「でも……」
「どうした?」
「あの子たちが、あなたとぼくはとても親しいと、そう言って」
「そういえば、子らはどうしてる?」
男の疑問にはわざと答えず、桂は無理矢理話をそらした。
「さぁ……」
「さぁ……とはどういうことだ?」
はっきりしない男の物言いに桂がきつく問い詰めると、男は、自分は今では工場に住み込みで働いているので、彼らが今何をしているかは全く知らないのだと いうようなことを明かした。
「なんだと!貴様、子らを捨てたのか!?」
貴殿と呼ぶことも忘れ、桂は男に詰め寄った。
あり得ない。やはりこやつは銀時ではない。
銀時なら、子らを捨てるよう真似だけは絶対にしない。絶対に!
激高する桂を前に、それでも男は動じず、「ぼくには彼らの記憶が全くないのです。従業員と言われてもぴんときません。友だちにしては若すぎるし、かといって子どもとして 扱うには大きすぎて、どう接していいのかわからないんです」全身に苦渋を滲ませながら、どこか寂しそうに打ち明けた。
「……すまん。言い過ぎた」
そうだ。銀時でないとわかっていながら、銀時と同じことをせよというのは無理な話。こやつは銀時ではないと誰よりもわかっているはずなのに。
なにより、記憶を失った銀時の姿を見るにしのびなくて、その後会いにも行かなかったのはまぎれもなく己自身ではなかったか。自分にこの男を責める資格などない。
申し訳ない、と項垂れる桂に、男はいいえ、と頭を振る。
「ぼくはきっと、子どもたちを見捨てるような人間ではなかったのですね。同じようには出来ないけど、でも、それがわかっただけでも良かったです」どこかしんみりし、「だって、だめでだめでどうしようもないとかしか聞かされてなかったもので」憂鬱そうに言った。
「まぁ……それは合ってるな」
否定できんーと桂にはっきり言われ、男はあからさまにショックを受けている。傍目にも気の毒なほどで、「気にするな。奴はそれでも皆に好かれている」慌てて取り繕ったのが悪かった。
「あなたにも、ですか?」
桂は、他に慰めようもなく、ただ思ったままを言っただけのことが、とんだ呼び水になってしまったことに驚き、そして悔いた。
「ああ、まぁ、そうだな」
自分でも歯切れが悪いと思いながらの返答だったのに、男がひどく喜んだので、桂はなんとはなしに胸が痛んだ。
「よかった……」
訥々とした口調で男が続ける。
「何一つ思い出せないんです。それを辛いと思うことさえなくなるほど、空っぽな自分が普通になりつつあって……それが怖くて怖くて……」
男は話を止めると、嫌みを感じさせない哀しい笑みを顔いっぱいに浮かべて桂を見た。
目を背けたくなるのをどうにか堪え、桂は頷くことで話の先を促してやる。それに力を得たのか、「でも……」と話を継ぐ。「でも、あなたは違うんです」
「子どもたちにも、彼らに引き合わせてもらった誰にもなんにも感じなかったのに……あなたは……どこかとても懐かしい匂いがする」
一息に告げる男の目は、頼りなげな表情とは裏腹に射貫くように鋭い。
あればかりは銀時の目だ。
もっと奥底にもなにか銀時らしき片鱗が現れていないかと探ろうとした桂だったが、何を思ったかいきなり男がしがみ付いてきて叶わなかった。すぐに引きはがそうと身を捩りかけたが、首筋にあたる髪の感触もまた銀時そのものであることに気付くと、桂は自然と動きを止めた。
おれも存外情けない男だな。
それでも、縋るような背に手を回したくなるのをじっと堪える内、男が離れた。
「すみませんでした」しっかりとした口調で謝罪したが、「やっぱり、懐かしい匂いがします。とても安らぐような……それでいて、何故か胸を締め付けられるような……」最後は消え入りそうな声になった。
「……古い友だからな」
「そう、ですか……」
呟く男の言葉に残念そうな色合いが濃く滲んでいることに、桂は気付けない。自分の声まで震えているのは、ただの気のせいだと思い込もうとしていたから。そして、もうどんなことにも気付きたくないと強く思ってもいた。


まるっきりの偽者でもなく、かといって本人とも言い切れない、ただ銀時の姿をした男。その目を見つめながら、桂が焦がれるように追っていたのは、寂しく揺曳する在りし日の銀時の幻だった。


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