くさかげの名もなき花に名をいひし、初めのひとの心をぞ思ふ 伊東静雄
思い出せる一番古い記憶は、すすけた薄暗い天井。天井とはいっても、板の張られていない、ただの草葺き屋根の内側だ。 おれはそのみすぼらしい薄暗い色だけ、嫌というほど覚えている。 なにしろ日がな一日家の中に閉じこめられていたのだ。 囲炉裏端の、いわゆる大黒柱に腰紐で繋がれて。 ものごころがついた頃、すでに家には母親とおれの二人しかいなかった。 かつて、父親と過ごした記憶もない。 顔も知らないし、母から父の話を聞いたことも、多分ない。 そもそも、母親と会話らしい会話をしたことがあったのかも解らない。多分、なかったのだろう。 一緒に生活していくのに必要な事柄の伝達のみが、互いに交わす言葉の内容だった。 当然のように家は貧乏だったらしいので、母は一日朝早くから夜遅くまで、外で働いていたように思う。 多分、田畑など所有してはいなかっただろうから、日雇いでもしていたのかもしれない。 確かなことは覚えてないし、何も知らない。 仕事には連れて行けないので、おれは家に一日中繋がれていたのだと思う。 なにも繋ぐ必要はなかったろうに、と今になってみれば思わないでもないが、それが、何も知らないおれが家の中を這い回り、土間に落ちてしまわないようにとの配慮もあってのことだったのか、 それとも、単におれを家に”厳重に”閉じこめておきたかったからなのかは解らない。 あるいは、その両方だったのかもしれない。 いくら幼い頃の話でも、他でもない己自身の記憶だというのに、やたらと”多分”が多すぎるのには苦笑するしかない。 だが、正直、母親の顔も名前も、覚えてはいないくらいだから仕方がない。 そんなことはみな、もうどうでもいいことだ。 年は覚えてはいないが、おれが柱に繋がれなくなって数年後、おそらくは5、6歳の時には、おれは家にも母にも繋がりが無くなってしまったのだから。 その頃のおれは、柱に繋がれなくなっていたとはいえ、日中は相変わらず家の中閉じこめられていることに変わりなかった。 それでも、時折、夜になると母が家の裏の竹林に入って遊ぶことを許してくれることがあった。 川や風の音、虫の声、外の空気、そんなものは全て夜の世界の中でしか知らなかった。 色彩の殆ど無い世界がおれの世界だった。 そんなわけで、おれは長い長い間、母親以外の人間を見たこともなかった。 あの夏。 思い出すだけでも噎せ返るような暑さに全身が汗ばんでしまうようなあの年の、夏。来る日も来る日も日照り続きで、毎日水瓶をいっぱいにするには雨水だけを頼りには出来ず、母は何度も川と家を往復していた。 実際、母は天候に関係なくよく働いた。 雨の時でも外に働きに出ていたし、大雨の時は家にはいたように思うが、それでも、おれが母の顔を記憶しなかった、出来なかったのは、雨のせいで家が薄暗かった為ばかりではない。 家の中ですら母が働いてばかりだったからなのだろう。 うつむいて藁を打ち、縄をなっている、よく動く手だけはなんとなく記憶にある。 顔や名前も忘れているくせにそんな姿だけを覚えているから、懐かしむことはないにせよ、憎むことも出来ないでいる。 |