その日もうだるような暑さの中、母はいつものように川へ水をくみに行っていた。 なにが原因でそうなったのかは知らない。ただ、家の周囲が突然夜のように暗くなったことを覚えている。驚くまもなく、透き間のいっぱい空いた板壁から黒煙が家の中に入り込んできた。 母には、日中は家の外に出ないよう言いくるめられていたはずだが、あまりの異様さと息苦しさに言いつけを忘れ、おれは思わず外に飛び出していた。 そこでおれが目にしたのは、初めて目にするはずだった色彩豊かな田舎の風景などでは決してなく、裏山からものすごい勢いで黒い煙が入道雲のように沸き上がっている有様。 そして、その黒煙を押しのける勢いで、山の木々が巨大な炎の舌に舐められ、パチパチと音を立てて燃え上がっている様だった。 家も燃える!逃げなきゃ! そう思いながらも、おれの足はそんな意識をまるっと無視して再び家の中におれを連れて戻ると、今度は手が勝手に土間においてあった中身の少ない米俵と、なぜか火吹竹をひっつかんでいた。 それらと一緒に再び表に飛び出すと、目の前に見たこともない人間たちが立っていた。 「なんだ、あの子供は!」 それが、おれが見た初めての母以外の人の姿。そして、初めて聞いた母以外のの人の声だった。 大急ぎできびすを返してきたらしい母が息を切らしながら戻ってきたが、家やおれが無事なのを見てホッとするどころか、その連中の姿を認めるや否や、その場にぺたんと尻餅をついた。 「おれたちはな、あんたの家が焼けてしまうんじゃねぇかと心配してこうやって来てみたわけだ。だが、……」 その男の話が終わらない内に、おれたちの周囲を目に見える風のように舞い踊っていた黒煙が、急にどこかに消えてしまった。 風向きが変わり、裏山の火は家のほうではなく、違う方角へと移り進んでいったのだった。 飛び火でおれの、いや、母の家が焼けないようにと駆けつけてきたという男たちは、そこで話を中断すると慌てて火を追ってどこかへ行ってしまった。 「あこよ……、外に出てしまったんね」 震えるような声でそれだけ言うと、母もまたふらふらとどこかへ行ってしまった。 手ぶらだったので、途中で放り出してきたらしいひしゃくと手桶を川へ取りに戻ったのだろう、おれはぼんやりと思った。 それから数日の間、火を消しに来た男たちが何度も何度も母を訪ねて来た。どんな話をしていたかは覚えていない。何もおれの耳には届かなかったから。 男たちは決して大きな声を出したりはしなかったように思う。多分、おれに話を聞かれたくはなかったのだろう。 同情からか、恐れからかはわからないが。 母の声も聞こえなかった。けれど、ぺこぺこと何度も繰り返し頭を下げているのが、土間に延びてきていた長い影の様子で見て取れた。 そして、あの山火事からほどなくして、おれは突然、家から出されることになった。 母は理由を言わなかったし、おれもまた、訊かなかった。 たった一言、どこか遠い所まで、ある人と一緒に歩いて旅をするのだよ、と告げられただけだ。 別れの日の母の様子も詳しくは覚えていない。ただ、いよいよおれが家を出るという時、そっとおれの手を取ると、おれの指と自分の指を絡めてぐっと握った。 その取った手と取られた手の、爪の形がやけにそっくりで、どこか不気味だったことを覚えている。 「あこ、おまえの目や髪と同じ色の飯には気をつけな」 耳元で、小さく告げられたそれが餞別の言葉。 おれは何も答えず、家に迎えに来た男と一緒に家を出た。存外あっさり別れを終えられたのは、 おれを連れに来た見知らぬ男や、昼日中に外を歩ける未知の体験の方に心を奪われていたのかもしれない。 母も家も、それ以来一度も目にすることはなかった。 |