あなたがおかわいそうと言われた日、あの場所に男の人が訪ねて来たのでしたね。 確認するように松陽が言った。 でも、こたえる必要がないことおれは思っていたので返事をしなかった。 松陽はおれの言った話は全部覚えている、そう知っていたので。 おれが正しいことはすぐに解った。 松陽はじきに話を続けたから。 「その男の人はね、あなたが欲しかったんですよ」 百太郎みたいに、とは言わなかった。 おれもまた、言葉の細かい意味までは解らずとも、先生から聞かされた話は全部覚えていたから。 そして、先生もそれを知っていたから。 それに、あの時のおれはもう、先生が何を言おうとしているかおおよそのことは解っていたし、やっぱり先生もそれを承知していたと思うのだ。 それでも、あの時のおれは松陽から全てを聞きたいと思っていた。 松陽の口から。 松陽の言葉で。 「多分、あの長雨で、村の大切な何かをなくしてしまったのでしょうね。前にもお話ししたとおり、それは橋だと思うのです。百太郎さんの村と同じように堰、だったかもしれませんがー。 時々、平易な言い方を混ぜながら、先生は話をしてくれたっけ。 「山の土が柔らかくなると、山に生えている木が倒れやすくなるのは解りますか?根っこが、山から剥がれてしまうからですよ」 おれは、前の年に石段の上から飛び降りて足を怪我したところに、かさぶたが出来たのを思い出していた。 それがぽろりと落ちた時に「きれいに剥がれましたね」とねぎたちが喜んだことも。 あんな風に、木が落ちてしまうなんて想像も出来なかったガキのおれには、長雨の恐ろしさが身に染みた。 「木が倒れるだけでなく、柔らかくなった山の土ー土砂と言わせて下さいねーも」 「山からはがれる?」 言葉を切った松陽に代わって、おれは続けた。 「はい。前にも確か言いましたが、”崩れる”ともいいます」 松陽が頷いた。 「水が増えた川の流れは、土砂や倒れた木を押し流してしまうことがあるのです、銀時。私たちが見た落ち葉のようにね。そして川の曲がったところや、川幅が狭くなっているところでは、土砂や木が、またあの落ち葉のように それ以上流れることなくー 「……たいせきする」 あちこちに水の流れを堰き止めるほどの落ち葉が堆積してーたまってーいます。 そう松陽は言ったはずだ。神社がある所を川が教えてくれたのだとおれに言った時に。 なら、おれでも解る。落ち葉でもたまって水の流れを止めるのだ。それが土や木ならー。 松陽は多分曲がった川や川幅の狭さをおれに説明するために動かしていたのだろう手を止めて、また頷いた。 その目が、そうです、銀時。そうですよーと言っている。 「そうしてずっと堰き止めているのならまだいいんですが」 「そうなのか?」 「ええ。新しい沼というか、池……そうですね……大きな大きな、大きな水たまりが出来るだけですから」 「邪魔だろ?」 おや、というように松陽がおれを見た。 おれが「莫迦」と言った時と同じ顔だ。 「……確かにそうかもしれません」 楽しそうに肩を揺らしながら、それでも大真面目に言うのがおかしかった。 でも、と松陽は言った。 「でも、邪魔なうちはまだいいのです。”邪魔でなくなる時”が一番怖いのですよ」 「銀時は、鉄砲というのを知っていますか?」 松陽は突然、話を変えた。 知ってる、とおれはこたえた。 さすがに戦場跡に転がっているような代物ではなかったが、その弾が見えない速さで人を傷つけたり殺してしまうことは嫌と言うほど知っていた。 戦で人を殺すのは刀だけじゃないって。だって、見てきてたから。 何度も、何度も。 「鉄砲水という言葉があるのです、銀時」 肩を揺らすのを止め、松陽がじっとおれを見た。 「てっぽうみず」 嫌な感じの言葉だと、おれは思った。 そう思っているのはおれだけではないようで、松陽の声がほんの少しいつもと違って響いている。 「土や木が堰き止められてできた土手は、ちゃんとした土手ではありません」 神社みたいで神社じゃない、白神神社のように。 「だから、どんどん増えてくる水を全部堰き止めることは出来ないのです」 それじゃぁ……。 「止まない雨のせいでどんどん水が増えていくと、いつかは堰き止められなくなり、一気に決壊してー壊れてーしまいます。今まで堰き止められていた沢山の土、木、そして水が、 鉄砲の弾のように速く川を下って、山裾のー山の下の方にある平になっている土地ですねー村に押し寄せます」 一つ一つの言葉の意味は、やっぱり解らなかった。 けれど、松陽の言っていることの恐ろしさは充分に伝わった。 ただの水じゃないんだ。 土や、木が一緒に来るんだ。 鉄砲みたいな速さで! 「畑も、田も、家も、そして人も、みんな流されてしまうことでしょう」 言葉を濁すことなく、松陽は言い切った。 「だから、村を、村の人たちをそんなことにしたくなくてあなたに縋ろうとしたのでしょう。気の毒なことです」 もちろん、と松陽は続けた。 それまでより大きな声で。 「それはそれ、これはこれですよ銀時。いくら困り果てていたとはいえ、人柱を立てようなどあってはならぬことです」 松陽は更に声を大きくして 「ええ、そうですとも。ましてやその村になんの関係もない無辜の子どもを、など!」穏やかな物言いと表情はそのままに、ただ、その目だけが昏かった。 それは多分、強い口調とは裏腹に、先生があの男を責めきれないでいた証。 怒りとともに、やるせなさや、憐憫や無力さやなんやかやが複雑に混ざりあった、人としての悲しみの色だった。 おれはあの偽神社で飼われていたのだ。 いつの日か、第二、第三、ひょっとしたらもっともっと沢山いたかもしれない百太郎の代わり役となるべく養われていたわけだ。 人柱を必要とする無知蒙昧な連中に買われるために。 まったくとんでもねぇ話じゃねぇか。 散々和子だの御子だの大層な呼び方しやがって。 実のところ、供え物の饅頭並だ。その饅頭が、生き抜くために供え物泥棒をして喰ってたなんて洒落にもなんねぇ。 けれどー。 「おれは銭いくらだ?」 あの時、おれは先生に訊いたっけ。 おれはいくらで売られたのだろうと。 だって、おかしいじゃねぇか。 いつ買われるか判らねぇガキの世話をあいつらはずっと続けたんだ。 食わせて、風呂に入れてーおれの場合たまたま1年ほどだったが、ひょっとしたらそれが5年、 10年と続いたかもしれねぇってのに。 1年でもとてもペイしたとは思えねぇってのに。 だって、村の連中がいくら金を出し合ったって、そんな大金捻出できるわけがねぇ。 そんくらい、無知で無学なガキのおれにだってわかったしよ。 「みなさん本気だったのかもしれませんね」 おれが言いたいことは全部知ってる松陽にしては、変なこたえだとおれは思った。 |