「師に若くは莫し」 ー晋助の場合ー


「先生、ひょっとしてそれは席書きのご用意ですか?」
背後から遠慮がちな声がした。
「そうですよ」松陽は筆を硯の横に置き、「どうかしたのですか、晋助?」振り返って訊いた。

春のうららかな日差しの下、さきほどまで確かに銀時や小太郎と元気いっぱい走り回って遊んでいたはずなのに、どうしたことかと松陽は訝しんだ。 この子は銀時や小太郎と違って、普段、自分から積極的に話しかけてくることはあまりない。珍しいこともあるものだと。

喧嘩でもしたのでしょうか、倦いたのでしょうか。それとも……。

「喧嘩したのではありません」松陽の懸念に気付いたのか、晋助は口早に訴えたが、それきり黙りこくってしまう。
松陽はゆったりと晋助の言葉を待った。
やがてー
「席書きでは、わたしにどのような題をお出しいただけるのでしょう?」
晋助は、これまた珍しく真剣な面持ちをしている。
なるほど、そうでしたか。
席書きでは、教室の真ん中あたりに敷かれた毛氈に、子どもたちが順に座りって字句などを書く。 一人一人が異なる文字を書き上げた紙は、世話役の手で鴨居や壁に貼られていくのだが、来月にひかえている春の席書きでの世話役を、 小太郎の母御がかってでられたのだった。それを遊びの最中に小太郎にでも聞いて、こうしてやって来たのだろう。
この子は、あの気のよい奥方が大好きですからね。
それで、今から練習に励む心づもりなのだと松陽は微笑ましく思った。
「まだ決めていないのですよ。ですから、今、こうして考えているところです」
「そうですか……」
いかにも残念そうな様子がまだまだいとけない。
「みな、それぞれに違うものを考えなくてはならないので、大変なのです」
晋助はますます項垂れる。その様子がいかにも不憫で、 松陽は「ですから、晋助」と水を向けると、一緒に考えてはどうかと聞いてみた。
はじめ、怖じ気づいたような顔で固辞していた晋助も、松陽に重ねてぜひにと請われ、「はい!」と嬉しげに応えて破顔一笑した。つられるように松陽もまた笑顔になる。

「晋助はどんな言葉が好きですか?」
言われて、晋助は懸命に考え始めた。
席書き当日に手本は与えられない決まりになっているので、子らは予め書く文字を覚えておかなくてはならない。 大勢の父兄の前で忘れてしまったり、字を間違うのは恥ずかしく、とても 不名誉なことだ。だから、みな多かれ少なかれ気を張り詰めてしまう。 晋助も決して例外ではないが、持ち前の自尊心に見合うだけの器量を持ち合わせている。 席書きでは、内心はどうあれ、涼しい顔で巧みな筆さばきを見せるのが常だ。
なのに、今度ばかりは違うようですね。
晋助は、大好きな人の前で万一にでも恥をかくようなことがあってはならないと思い詰め、一生懸命になっているらしい。 松陽が、そんな子どもらしい誠心を見せる晋助を目を細めて見守っていると、「夷険一節ではだめでしょうか?」意外に早くこたえが返ってきた。
「順境にあっても、逆境にあっても己の信念を変えないーですか。とてもよい言葉を選びましたね」
褒められて、頬を朱に染めながらも晋助は俯いてしまう。

「あなたは、いつかそんな大人になってくれると信じていますよ、晋助」
手本を受け取り、その書を嬉しそうに見つめている晋助に、松陽は言った。
晋助は、頬をますます赤くしながら、それでも「はい、先生、必ず!」と今度ばかりは元気よくこたえたのだった。


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