浸透圧 その4

「ヅラ子?なんだ、そりゃ?」
「源氏名だ」
「やっぱ本名は桂なんじゃねぇか!」
「やかましいわ!今はヅラ子だと言っておろうが!頭悪いのか、貴様!そもそも一目でおれを見抜けなかったとは、おまえの目は節穴だな。瞳孔が開いてるからか?」
「うっーせーよ!暗くて判りづれぇんだよ!そういうてめえこそ、おれが真選組だって判らなかったんだろうが!」
「判ってほしくばいつもの隊服を着ておればよいのだ!ゴキブリみたいで判りやすい」
「るせぇ!おれぁ、今日はオフだったんだよ!オフの日にまであんな堅苦しい服を着ていられるか!」
「迷惑だ!おふだろうと、就寝中だろうと、遠泳中だろうと貴様等はあの黒服を着ておればよいのだ!」
「無茶を言うな、無茶を!」
「あ、解ったぞ。貴様、あの隊服を着ていると市民から石つぶてや生卵やらが飛んでくるので着ないのであろう?」
「んな訳あるかぁぁぁぁぁ!」

そんな馬鹿な話の応酬をしつつも、おれたちはじりじりと包囲網を縮めてくる連中との間合いをはかっていた。刹那、
「来るぞ!」
桂が言う。
「わーってるよ!」
おれが応える。
「だったらぼさっとするな!」
桂が怒鳴る。
「てめぇこそ、足手まといになるなよ!」
おれが叫ぶ。
「貴様、誰に言っている」
桂が睨む。
「もちろん、てめぇだよ、桂」
おれが鼻で笑う。
「桂じゃない!ヅラ子だとさっきから言っておろうがぁぁぁぁ!!」
桂が思い切り腕を振り上げたのが見えた。と思ったら、次の瞬間、アッパーをくらってたのはおれだった。
どうやら、それが連中の張り詰めていた緊張の糸をプツリと切る切っ掛けになったようで、おれが痛む顎に手をやる暇もない内に、一斉に襲いかかって来やがった。

こうなりゃやけだ。
やれるだけやってやる!と覚悟を決めたおれのすぐ眼の前を、何人かの男達が無様にぶっ飛んでいった。
桂ぁ?
> 相変わらず自分一人何処吹く風の風情で、淡々と男たちを素手で薙ぎ倒してやがった。
声を荒げることもなく、足を振り上げることもなく、ただ、一人ひらひらと踊っていた。
その所作の一つ一つが、まるでスローモーションのようにゆっくりとおれの眼に焼き付いていく。
「ぼさっとするな、と言っておろう!」
桂の声に我に返ると、桂の方に向かうのを止めた連中が、よってたかっておれの方へ向かってきている。
そりゃ、ねぇだろぉ!?
桂は相手に出来なくても、おれになら負けないってか!
とことんむかつく連中だ。
急に腹が立ったおれは、力任せにその辺の男から片っ端にぶん殴っていった。
匕首だぁ?
そんなもの目に入らねぇなぁ。
がむしゃらに手を伸ばし、さわったものをそのまま力任せに掴んで、倒す。その繰り返し。
手加減もクソもねぇ。おれに喧嘩売ってただですむと思ってんじゃねぇぞ!

暴れに暴れて、気がついた時は辺りはただ、静かだった。
立っているのは一人、おれだけ。
あのばかでかい男ー倒した記憶はねぇから、やったのは桂だろうーもキッチリ倒れ込んでいる。そりゃもう無様に。
で、桂は?
桂は何処へ行った?
隙を見て逃げやがったか?
「おわっ!」
おれが探しているのに気付いたのか、いきなり目の前に降ってきやがった。
「これくらいのことで驚くな」
「驚いてねぇ」
貴様、おわっ!と言ったではないか、とおれの声音を真似る。
全然似てねぇし、なんか腹立つ。
「違げぇよ、おまえは!って言っただけだ」
「そうなのか?もう忘れたのか、おれはヅラ子だぞ」
「いや…そうじゃねぇ…」
こいつと話すとなんだか疲れる…。
まだ追いかけ回してる方が楽だ。
…追いかける?
ああ、そうだ。
おれはこいつを捕まえなくちゃならねぇんだ。
やっとのことでそんな当たり前のことに気付いたおれの心中をどうやって察したのか、桂はす、と後ろに下がった。
そして「先におれの言うことを聞くんだな。その落とし物とやらは、あの転生郷だ」とそれは厳かに告げたのだった。


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