「不協和音」2
「大串様ー!大串様!」
遠くでどうやら自分を呼ばわっているらしい声に、土方は気付いた。
ああ、そういやおれが大串だったな。
どうして大串なんかにしちまったんだか、全く我ながら嘆かわしい。
結局今まで住んできたどの家からも離れた場所の不動産屋を探して偽名を使うことで、職業までを騙ることなく、あっけなく新しい住まいを手に入れることが出来た。
しかし、やはり偽名を使うことにどこか抵抗があったのか、名を聞かれた時、当初の予定では井上だの山本だのというありふれた名にするはずだったのが、
何故か、本当に何故か、ついうっかり「大串」と自ら名乗ってしまったのだった。
大失敗だ。
このおれが、大串!?
どうやら何度も呼びかけられていたらしく、その声に苛立ちが混じっているのに
のにもうんざりしたが、こたえないわけにはいかない。名乗ったのは他ならぬ自分自身なのだ。
声がした方に顔を出すと、案の定苛立ちを隠しきれない様子の不動産屋が、玄関先で
流れる汗をド派手な赤いハンカチで拭き拭き土方を待ち受けていた。
「ああ、大串様、お返事がないからまだいらっしゃってないかと思ってましたよ」
「悪ぃ。少し前に着いてたんだが、荷が着くのを待ってる間に庭だけでも見ておこうと思ってな」
なるほど、なるほどとばかりに不動産屋の親爺は頷いてから、こちら、なかなか広いお屋敷ですからな、迷子にでもなっておられやせんかと心配でしたよ、と言って
それがまるで自分の手柄でもあるかのように闊達に笑った。
んなもんなるか!
ふと、悪態をつきそうにはなったが、確かにそんな心配をされても不思議ではない程の屋敷であることは、店で確認済。
荷が届くまでやることもないので、ぼんやりと庭を散策していたのだが、些細なことで声を荒げる気も失せるほど広くて爽快だ。
だから、ただ、お愛想笑いを返すだけに止め、お荷物はどこに運び入れましょうかという問いにも、適当にそこいらに運び込んでくれればいい、とだけ答えた。
忌々しいバズーカのせいで、否、沖田のせいで、家財道具にも使いものにならなくなったものが多く、実際運び込まれる所持品は男の一人暮らしということを差し引いても、意外と少ない。
あっと言う間に荷入れは終わり、土方がたった一人ガランとした屋敷の取り残されたのは、まだ日も高い内。
やれやれ、一時はどうなることかと思ったが、とんとん拍子に事が運んだな。やはり、偽名を使う手は有効だった。
嘘も方便とは正にこのこと。
土方はひとりごちると、さっさと荷をほどくことにした。
生憎不動産屋が運び込んだ荷は、お世辞にも整然と並べられているとは言えず、土方を引っ越し早々唖然とさせたが、
取り替えたばかりらしい畳の青い匂いに気を取り直すと、その後はひたすらと荷ほどきに励んだ。
あっけなく全ての荷を解き終えると、今度は何をどの部屋に置こうかと、
各部屋を覗きつつ楽しく吟味しはじめた土方は、幾部屋目かでピタリとその手を止めた。
変じゃねぇか。
いくらなんでも広すぎだろう。
無論、店で簡単な契約を交わしている最中から奇異には感じていた。敷地の割に店賃が格安だったのだから。
何やらいわく付きの物件ではないか訝しみはしたものの、土方の記憶にある限りその辺りで
殺人やらテロやら一家心中やらの凄惨な事件が起こったことはない。
その上、念には念を入れてその点は家主の言質までとってある。
前の借り主が店賃を年払いしておきながらふいに越してしまったからだ、と言われ納得もした。
警察を相手にすぐばれるような嘘をつく阿呆はそうそういまい。
それでひとまず安心したのだが…図面で広いと感じるのと、その場にいておのが身体でもって広いと感じるのでは雲泥の差があることに気付いたのだ。
実際屋敷の中を歩いてみると、迷路とまでは言わないまでも、襖を開けても開けても、次々に奥に部屋が現れてくる。
小さな構えの旅籠と言っても通用しそうな程に。
もう何枚襖を開けたか解らない。自分が今、家のどこにいるのかも。
しかも、どの部屋も手入れが行き届いている。
あの店賃でこの屋敷。やっぱあり得ねぇ。
なにか、ある。
あるはずだ。
ないはずがねぇ。
家主が保証した通り、事故でも事件でもないとしたら…なんで前の借り主は、店賃を支払っておきながら早々に引っ越しちまったんだ?
他に思い当たるような理由なんて………
……まさか?
…………まさか、出るとかそういう話なのか?
土方は、血の気が一気に引いていくのを確かに感じていた。
あれなのか?
あれが出るとかなのか!?
いやいやいやいや、それはねぇだろう。
ありえねぇ。
てか、あってほしくねぇ。
別に怖いとかそんなんじゃねぇんだが…なんだ、その、ちょっと苦手なだけで…や、そんな頭の悪そうなもの、信じちゃいねぇけどよ…。
誰に向けられているのか解らない土方の裡なる言い訳が延々続くかと思われた時、ガラス戸を頻りに叩く音が聞こえてきた。
普通に考えると、おそらく玄関の戸だろう。
るせぇな。
引っ越し早々誰だ?
新聞の勧誘か、何かのセールスか?
ちっ、しょーがねー、出てやるか。
居留守を使うという手もあるんだがな…なんだ、こう人恋しいとかそういう訳じゃねぇんだが…。
本当は面倒なんだがよ……云々…またしても
何の為かも解らぬ弁明で胸中をいっぱいにしながら、土方は、
「あー、今行きます」
と、いかにもやる気なさげな声音で返事をした上、渋面をこしらえると、何故か随分と軽い足取りで玄関に向かった。
屋敷内の探索の途中だった為、まだ間取りが頭に入っておらず少々難儀はしたものの、どうにかこうにか音を頼りに進んでいく。
段々と聞こえてくる音が大きくなっていくので、自分が正しい方向に進んでいることが解り、土方はホッとした。
それが証拠に、戸を叩く音に混じって来訪者らしき人物が何かを言っているらしいのも聞こえてくる。
ちっ、やっぱセールスか。
牛乳か新聞か、どうせその類だろうと見当を付けていると、腹が減った、だの徹夜明けはだりぃだのと言う声がはっきりと聞こえてきた。
なんだぁ?どこぞの酔っぱらいの親爺か?
こんな時刻に、ざけんな!
さっきまでの弱気な態度はどこへやら、文句の一つも言ってやろうと勢いよく戸を開けると、そこには今、一番顔をあわせたくない男が所在なげに立っていた。
全ての元凶、忌々しい沖田総悟が。
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