惑志 沖田

「これで、貸し一つでさぁ」
「何が貸しだ」

近藤から離れたヅラ子はいつの間にか素に戻り、桂として沖田に応じている。
「近藤さんの前で正体をばらさなかったんですぜ。あ、それだけじゃねぇ、捕縛もしてねぇ。二つですねぃ」
「今は、であろうが。この先貴様がおれを無事に家に帰すとは思えん」
「へぇ、なかなか良い勘してやすね」
「な…んだと?」
その言葉にすぐさま全身に緊張感をみなぎらせる桂に、沖田は慌てて手を振ってみせる。
「さっきのは取り消しまさぁ。あんた、やっぱり鈍いですぜ」
怪訝そうな表情をする桂に、沖田はにやりと笑ってみせ
「おれは、あん…桂さんとどこぞにしけこみたいだけでさぁ」
としれっと言った。
「巫山戯るな!」
「おれぁ大真面目なんですがねぇ」
「…先日の手当でチャラにしろ」
「えー、マジですかい?」
「大マジだ、この痴れ者!」
「じゃ、接吻一つにまけておきまさぁ」
桂はそれを綺麗に無視して、無言のまま早足で歩きはじめる。
あっという間に距離を空けられた沖田は、桂に追い付こうとして小走りにならざるをえない。
「ちょっと待って下せぇよ」
「沖田、いい加減に…」と振り向きざまに投げつけようと開きかけた唇は、いつの間にかちゃっかり追い付いてきていた沖田のそれによって塞がれてしまう。
「あんた…桂さん、マジで足速すぎまさぁ。全く油断も隙もねぇ」
どっちが、と桂は思うが、あえて口には出さない。
会話の切欠など与えてやる必要はないのだ。
ポカリと頭に拳骨を派手にくれてやると、早足のままずんずん進み続けた。
沖田に何を言われても、振り向きもせず黙りのまま。
沖田はそんな桂を一向に気にした風もなく、同じ歩調で付いてきて、時折星も出ていない空を見上げては「流れ星の一つくらいサービスしてほしいもんですぜ」だの 「墜ちるついでに土方の頭に直撃しやがれ」だのと言いながらこの道行きを楽しんでいるようだった。

やがて
桂は大路の三叉路の手前で足を止めると、後からついてきている沖田をやっと見遣った。
「どこまでついてくる気だ、貴様?」
「へぇ、そりゃご自宅まで」
「おれに構うな、放っておけ!」
「近藤さんにちゃんと送り届けるって約束しちまったもんでねぇ」
「貴様をおれの隠れ家まで連れて行くと本気で思っておるのか?」
「ああ、お仲間の目もありやすからねぇ。でも、今夜は大丈夫でさぁ。おれぁ隊服着てやせんし」
「そういう問題ではないわ!」
「じゃ、どういう問題で?」
「…おれはこれから行く所がある。貴様を連れて行くわけにはいかんのだ」
だからもうついてくるな、と桂が言う。
「へぇ?それはまた…夜中に集会でも?」
「貴様に言うと思うか?」
思いませんがねぇ、と沖田はくつくつと笑う。
「じゃ、今夜はまだあの屋敷には戻りなさらねぇんで?」
白梅の美しい、と沖田が続ける。
「…なぜ、そこを知っている?」
面には出さなかったが、これには桂もかなり驚ろかされた。
以前、突然血まみれの沖田が訪れてきた屋敷は早々に引っ越している。
それからでも優に三度は宿替えをしているというのに。
しかも、沖田の言う屋敷には僅か三日前に越したばかりだ。
「前にも言いやしたが、企業秘密でさぁ」
「ふん、くだらん」
何気ない口調を装いながら、桂は内心明日の宿替えの胸算用を始める。
また沖田に気軽に来られでもしたら大迷惑だ。
惜しいな。もう少しの間、あの白梅を愛でていたかったものだ。
「あの梅はあんた…桂さんの趣味ですかい?」
桂の胸の裡を知ってか知らずか沖田が訊く。
沖田はもう、二人の時はヅラ子とは言わない。何度も叱られたので、あんた、と呼びかけてもすぐに桂、と訂正するようになった。しかもさん付けだ。
「隠れ家に好き嫌いなどない」
が、とても気に入っている、と仏頂面のままで言うのが沖田には面白い。
「お似合いですぜ、白梅」
「そんなことはおなごを口説くときにでも言うんだな」
「へい、おれぁ、今口説いてるつもりなんですがねぇ」
「武士を愚弄するか!」
「刀の柄に手をかけたいんでしょうが、今あん…桂さん丸腰でさぁ…それに、その態で武士と言われてもねぇ」
困りまさぁ。
それだけ言って沖田はまた楽しくてたまらないという風に笑う。
くそ。
桂が不満そうに唇を尖らせるのを見て、その声が更に大きくなった。
なにがそんなに楽しいんだか。
今度こそ嫌味の一つでも言ってやろうと開きかけた唇は、「白梅とはなかなか気障なこと言うねぇ、総一郎君は」という闇から割り込んできた声に反応して半開きで固まってしまった。


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