男とおれがしばらく無言で歩き続け、家の前のなだらかな坂道を下ってずいぶん過ぎてからやっと、おれの家と同じような小さい家がいくつか見えてきた。 藁束や囲炉裏から出ている煙の匂いをかすかに感じながら、それらの家々の横道を通り抜けようとした時、なにか奇妙な感じを受けたのを覚えている。 ごく普通の家のように思えたそれぞれの家からは、一切の物音が聞こえてこなかったのだ。人が普通に生活をしている以上、それは有り得ない。 無音の五月蠅さに、身がすくむような思いがした。 おそらく、みな家の中から息を潜めておれたちの様子をうかがっていたのだろうと、後々おれはそのことに思い至った。 その奇妙な感覚を振り切るようにひたすら足を動かして、おれは、おれたちは進んでいった。 遠くへ、ひたすら遠くへと。 やっと人の気配のない所まで行き着いて、大息をついたおれは、はじめてあの家々にいたであろう人と同じように、自分もまた息を詰めていたことに気付いた。 旅の初めの頃はおれが長い間歩くということに不慣れだったため、途中何度も足を止めて休息しなければ歩き続けることが出来ず、 連れの男に随分と迷惑をかけたものだ。 それでも、そんなおれをその男は迷惑がるどころか、なんどりとした眼差しで静かにを見守ってくれていた。 男は、今から思えば60代くらいの痩せこけた白髪まじりで、左の口元にはぽっかりと盛り上がって存在を誇示しているかのような大きな黒子があった。 歩いている時はお互い歩くことに集中してろくに口をきかないのだが、そうしておれが足を止める度、男は色々と話しかけてきた。 母親から予めおれについての話を聞き出そうとしてみたが、ろくすっぽ答えてもらえなかったのだ、というようなことを男は言った。 人との会話というものにも慣れていなかったおれは、それでも、知っている限りの言葉を使って、男の問いに答えようとはした。 多分、子どもなりの用心深さで男の気を害したくなかったのだろう。 「年はいくつだ?」 「年?」 「生まれてから何回正月があったかってことだ」 「……知らない」 「名前は?」 「名前?」 「おまえ、おっかさんになんて呼ばれてた?」 「あこ」 「あこ?おまえ、そりゃ名前じゃないよ」 そう言って男は困ったような顔をした。 男が何を言っているかその時は解らなかった。なにしろ名前、という言葉も初めて知ったのだから。 「あこって呼ばれてた」 男に否定されて少々不愉快になったので、もう一度はっきり言った。 確かに母はおれを”あこ”と呼んでいたのだと。おれの不満が解ったのか、男は穏やかな笑顔をつくって、 「おめぇはきっとそう呼ばれてたんだな。でも、そいつは名前とは違うもんなんだ」 かんで含めるようにゆっくりと言った。 「それはな、『わたしのこども』という意味だ」 たしかに、母にとっては”わたしのこども”だ。そう呼ばれて当たり前。だから、何が違うのかが益々解らなくなった。 男は戸惑うおれから視線を外すと、少し離れた場所をすっと指差して訊いた。 「あのな、あれ、なんだかわかるか?」 「……木だろ」 「じゃ、あれは?」 「山だ」 「じゃ、むこうの黒いのは?」 「カラスじゃねぇか!」 当たり前のことばかり聞く男に業を煮やして、最後には叫ぶように答えていた。 「おめぇ、カラスは”鳥”って答えねぇんだな。確かにあれは、カラスだ。だけど、鳥だよなぁ」 男が何を言い出したのか解らないまま、おれはただよく動く口元を見つめていた。男が話す度に、口元の黒子がせわしなく動いているのが面白かったのだ。 「おめぇが、木だといったあれな、あれは確かに木だが、”こなら”という木だ。あの山は”あさひやま”。木にも山にも、鳥にも、川にも何にだって名前ってもんがあるんだ。 鳥なら他にも雀くらい知ってるんじゃねぇのか?」 おれは何を言えばいいのかよく解らなかったので、ただ黙って頷いた。 「おれやおまえ、おまえのおっかさんは人だな。でも、おれは”徳治”という名だし、おまえのおっかさんは……だ」 はじめて知ったはずの母のものだという名前。 けれど、耳に入ってはこなかった。 それよりも、自分には”名前”というものがないのだなぁ、と心の中がなんだかもやもやしたものでいっぱいになった。 そんなおれの様子は置いてけぼりにして、男は、とくじは案外嬉しそうに言った。 「なにを思っておっかさんがおまえに名前をつけなかったのは解らねぇ。だが、名前がないってのも特別なことだから、喜んでもらえるかもしれねぇよ」 驚いたおれが誰に、と聞けば 「おまえを欲しがってそうな人たちにだよ」 そんな短い答えが返ってきた。 |