「鳥と名と 6」


気がつけばいつの間にか、おれを母からも故郷からも切り離す切っ掛けとなった山火事が起こった夏の日から一年程が過ぎていた。
皮肉なことに、その年は前の年とは真逆で長雨の多い夏で、もしあの時にこれほど雨が降っていたら、山火事も起こらず、おれもあの村にまだ住んでいただろうか、と時折思い出した。
母のことはあまり思い出さなかったが、とくじのことは何度も何度も思い出した。
ひょっとしたら、生まれてから何年も共に暮らした母よりも、 この神社まで旅した数日間だけだったとはいえ、一緒に過ごした時間の濃密さではとくじの方が勝っていたのかもしれない。第一、母はおれに何も教えなかったが、とくじはおれに色んな事を教えた。

いや、違う。
母はおれにとても大切なことを教えてくれたのだった。
とくじよりも、遙かに大事なことをー

一年経とうが、相変わらずおれは単調な生活を繰り返していた。
その夏の飽きもせず降り続ける雨の音が、日々の暮らしの単調さに拍車を掛けていたように思う。
だが、ごんねぎやねぎが入れ替わり立ち替わり何やら忙しそうにしていたので、それなりに身辺は慌ただしかったようにも思うのだ。
昔のことだ、細かいところの記憶があやふやなのは仕方がない。
第一、その頃の記憶はあまりというか、かなり思い出したくないものだから。

あまりにも蒸し暑かったその日、部屋に籠もっているのにも飽きたおれは雨を押して境内で遊んでいた。
遊ぶといっても危ないことは出来ないので、せいぜい顔に降り注ぐ雨の水を飲んだり、灯籠に刻まれている不思議な模様を眺めたりするくらいだったろう。 狛犬でもあればもっとよかったのだろうが、あいにくあそこには置かれていなかった。
これは後で知ったことだが、あの神社は諏訪神社の流れをくんでいる”つもり”だったらしく、眷属を白い蛇としていたためだろう。

「あの、坊や?」

雨垂れの音にかき消されるようなか細い声で話しかけられたのはおれだろうか?
不思議な気持ちで声がした方を向くと、見知らぬ男が所在なさげに手水舎に立っていた。
男はおれが初めて目にする鮮やかな色合いの着物を着ていた。そして片方の手に、これも鮮やかな色合いをした布でくるまれた何かを抱え、もう片方の手には朱色の傘を持っていた。 そのせいか、鈍色の風景の中で、その男の姿だけが縁取られたかのようにくっきりと浮かび上がって見えていた。
おれは、神社の者以外と口をきくことは禁じられていたが、話しかけられたことも皆無だったので驚いた。
おれがじっと顔を見つめると、男は一瞬、ハッとしたような表情を見せたが、すぐに「ぐうじさまかごんぐうじさまはおられませんか?」と訊いてきた。
おれは返事をすることが出来ないため、男を手招きし、側に来るのを待って無言のまま社務所の方を指さしてやった。
男はああ、というような顔で一礼すると、おれが指し示した方向へと消えていった。
男の姿が視界から消えると、おれはそのまま男の後を追いかけた。
着物の珍しい色彩に惹かれたのかもしれないし、手に持っている物が何か知りたかったのかもしれない。久し振りに自分に話しかけてきた”外部の人間”だったからかも。
とにかく、おれはその男に興味を持ち、その男と何でも良いから話をしてみたい、と思った。

男が社務所に行き、中の者に話しかけているのを見届けると、おれは近くの茂みに身を潜め、男が戻ってくるのを待ちかまえた。
男に話しかけようとするのを見られてはいけない。
おれは雨の中じっと待った。着物に雨が染みこみ、段々身体の熱が奪い取られ始めても、男は戻ってこなかった。
やがて、着物の端から水滴がしたたり落ちるほど濡れても、やはり男は来ない。
業を煮やしたおれはとうとう茂みから出て、ズカズカと社務所の近くまで歩いていった。
見つかってもかまわない。男に話しかけようとしていたなんて、誰にもわかりっこない。ただ、雨の中で遊んでいてここまで来ただけのことだ。
いざというときのための言い訳を用意しながら、おれは社務所の前で遊んでいるふりを始めた。

どれくらいそうやって虚しい芝居をしていただろうか。
男がやっと社務所から出て来た頃には、そろそろ夕餉の時刻だとおれの腹時計が告げていた。
男はおれに気付くなり「おやおや、これでは風邪をひいてしまうよ。子どもは元気だねぇ」とおれにではなく、その後の誰かに話しかけた。

「本当に、仰るとおりでございますな。こちらに風邪など召されては大変だというのに」

男にそう答えたのは、多分一年ぶりくらいに見るごんぐうじだった。


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