「鳥と名と 9」


人間なにが幸いするかわかったものではない。結局、おれを救ってくれたのは、幼い頃の暮らしぶりだった。

おれは部屋からそっと抜け出すと、何気ない風を装い厠へと向かった。
普段滅多とおれに口をきかないねぎやごんねぎたちが擦れ違う度、口々に「お加減は如何ですか?」と訊いてきた。

やっぱりおかしい。

おれはそう確信した。
今日がその六日なんだ、と。
実際はまだ五日目の夜だったのだが、六日目まで悠長に過ごしていたら、おれは今ここにこうやって生きてはいないだろう。
数も数えられない無学さが役に立つこともある。

声を掛けられる度に、「大丈夫」と短く答えるだけで彼らは満足し、それっきりおれに意識を向けるようなことはなかった。
ひっきりなしに声をかけられはしたが、誰も彼もが忙しく立ち働いていたようで、おれは機械的に答えるだけで彼らを遣り過ごすことができた。
一旦厠に籠もると、息をひそめて忙しげな足音がしなくなるのじっと待った。
どうやらおれの部屋近くで忙しかったのは庫裡関係の者だちだけだったらしく、夕餉の片付けが終わる頃には辺りが急に静まりかえった。

おれはそっと外に出ると、ゆっくり歩いた。
見咎められないよう、注意を引かないよう、ドキドキする鼓動をおさえてなるべく普通を装った。
一年の間、閉鎖された空間で生きてきたため、神社内の様子は多分誰よりも知っていたのではないかと思う。
だから、多少鳥居まで遠回りをする羽目になっても人目につきにくい場所を、足音を聞きとがめられないように玉砂利の敷かれていない場所を慎重に選んだ。
あの鳥居まで辿り着くまでに随分時間がかかった気がしたが、ほんの数分程度のことだったのだろうと思う。 鳥居は相変わらず堂々としていて立派で、はっきりとした理由も無しにここから出て行こうとしているおれを咎めだてするかのように力強く立っていた。

ごめん。

何に対して、どうして謝るのかは自分でもわからなかったが、おれは鳥居の額束に描かれている蛇らしき絵に頭を下げて、それから一気に駆けた。
どこに行くか。
そんなことはどうでもよかった。
とにかく、遠くへ。出来るだけ遠くへ。
ここから離れた場所ならどこでもよかった。出来るだけ早く、出来るだけ遠くへ行きたかった。

おれはひたすら走った。
怠惰な生活が災いしてか少し走るとすぐに息切れがしたが、休め、休め、もう疲れたと駄々をこねる足を誤魔化しながら。
何故だかは解らなかったが、走り続けないと大変なことになると知っていた。
そして、見つかれば必ず連れ戻されることも。
裸足の指や足裏にあたる石は痛かったが、それでも恐怖に後押しされるように、ただ走り続けた。
記憶に残っている道ーとくじと一緒に歩いて来た道ーは選ばなかった。もし、おれを追ってくる者がいたらその道を辿るような気がしたし、神社を出たからといっておれに戻る家のないことも知っていたから。

いつの間にか日が落ちて、夜が来た。
それでも、眠ろうなどと考えもしなかった。夜通しおれは走り、時々は休んで息を整え、また走った。
時々、追いかけてくる者の声が聞こえてきたり、灯りが見えはしないかと怯えたが、そんなものには出会わずにすんだ。

多分、ごんぐうじたちは高を括っていたのだ。裸足の、ましてや子どもの足だと。どこに行けばいいかもわからない知恵の浅い者だと。 暗い夜道では走ることはおろか満足に歩くことも出来まいと。ましてや遠くになど行けるはずもないと。
彼らは全部間違っていた。おれにとって幸いなことに。
彼らが、またその夜まで自分でも気付かなかった優れたものをおれは確かに持っていた。
目。
色は赤く、人から忌避される原因の一つではあるが、おれの目は特別だ。幼い頃から薄暗い部屋に閉じこめられ、 長じて後も夜にしか外に出ない生活を強いられてきたためだろうか、おれは夜目が利いたのだ。しかも格段に。


戻る次へ