おれは無事にあの一年間の全ての生活から逃げ切った。 いくら雨続きといっても朝が来ればそれと知れる。鳥居に別れを告げてから、三回目の朝を迎えておれはようやくそう確信した。 途端、これ以上耐えられないほどの空腹に気がついてしまった。 この三日の間、おれはなにも喰えなかったのだ。 時折、周囲に気を配りながら小川の水で口を湿らせた程度で、走りながら、歩きながら、休息しながらおれは何度あの白い飯を食っておけば良かったと後悔したことか。 そしてその度、喰っていれば確実になんだかおかわいそうなことになるところだったのだからーと思い直した。 その間、おれは誰とも行き会わなかった。 実に見事に。 追っ手がつかないことには安堵したが、生きた人を見かけないというのもそれなりに心細いものではあった。 さすがに不安になりかけた頃、おれは遠くにたなびく細い黒煙を見つけた。 降り続く雨をものともせずに天高く立ち上るそれらは、おれに人の存在を知らしめた。 あれは炊の火かもしれない。 きっと誰かの家があるんだ。 そう思っただけで一斉に騒ぎ出す腹の虫を宥めながら、おれは煙を道標に歩いた。 もう走れない、歩けない、とそれまで何度か挫折しかけたおれの足も、 その時ばかりは力強く動き、おれを前へとひたむきに運んでくれた。 誰かがいる。 あそこまで行けば誰かが。 まるでおれのために上り続けているような黒煙を見つめながら、導かれるようにその場所へと誘われていった。 けれど、それらは目で見ると近い癖に、近づこうと思い歩みを進めると近づいた分だけ同じように遠退いてしまい、いくら歩いてもちっとも近づけなかった。 辛抱して歩き、歩き、また歩き続けておれがそこにたどり着けたのはいつだったろうか。 辺りの様子は今でも鮮明に思い出せるくらいだから夜ではなかったのだろう。 昼か、夕刻か。 いずれにせよ、辛抱の末にようやく辿り着いたおれが目にしたのは、炊の火などではなかった。 それらはただの戦火でしかなかった。 それより何年か後、自ら加わることになるとは夢にも思っていなかった攘夷戦争の一戦場跡だった。 地獄ーと言う言葉もまだ知らなかったおれだったが、それでも目の前の光景は、この世にあってよいものとは思えなかった。 そこかしこに打ち棄てられた屍体が無惨な姿をさらしていた。 どれもこれも、雨でも拭いきれない血糊で身体中を汚し、 同じような断末魔の表情をこびり付かせ果てていた。 それらのことよりも、もっとおれを震撼させたのは、その場で生きて動いている人間たちの方だった。 死にきれず呻き声を上げ続けている者の声が、そして、そんな者達には目もくれず、ひたすら屍体の懐中を探っている者たちの飢えに引きつったような顔がおれの髪を逆立てさせた。 飢えて吐くもののないおれの腹がそれでも胃液を逆流させ、おれはその場にしゃがみ込んだ。 何故だか怖ろしくはなかった。ただ、気味が悪かった。 目の前の光景に耐えられぬと黄水を吐き続けながら、それでも、おれは悟ったのだ。 いずれおれも彼らと同じことをせねばならないのだ、と。 そうでなければ、打ち棄てられている屍体のように、己もまた風雨に亡骸を晒すだけなのだと。 |