ぱん! 乾いた音が辺りに響いた。 おれはなんら躊躇することなく頭に置かれた手を払い除けた。 そんな風に人に触れられたのは初めてだった。 正直平気でそんなことをする目の前の男が怖かった。 微かな微笑みをたたえているその面さえも。 死人の方がずっといい。 奴らはおれに危害を加えることは出来ない。……もう。 けれど、人は。 人は違う。 生きている者は。 敵だ。 おれを憎む。 おれを憎んでいる。 殺らなければこちらが殺られる。 おれは目の前の男を睨み付けたまま腰のものを抜いた。 練習の甲斐あって、小気味よくすらりと抜けた。おれが剣を扱い慣れていると誰もが信じて疑わないだろう程に。 けれど、 男は、それを見ても後ずさることも、顔色一つ変えることもなかった。相変わらず笑みを浮かべたまま静かにおれをただ見ていた。 しかも、その笑みが抜き身の刀を見たことでより一層深くなった気がして、おれは酷く焦った。 おれを恐れない。 刃も恐れない。 あまつさえ、その男はおれのことをたいしたものだと言ってのけた。 罵りもせず、怒りも向けず。ただ、淡々と。 この男は一体なんだ? 「そんな剣はもういりませんよ」 「捨てちゃいなさい」 怖いという感情よりも戸惑いを深め始めたおれに、男はごく自然な様子で自分の腰のものを放って寄越すと、くれてやると言った。 おれを目の前にして、己を守る武器を放って寄越す。そんな男の行動は一々おれを驚かせるには十分だった。 それでも、おれは無意識に男の放った剣を受け止めようと立ち上がっていた。 なんとか受け止めた剣の重みはズシリと両腕にのし掛かり、それまで抱えてきた剣よりも何故かはるかにおれを安堵させた。 決して宿るはずのない男の体温が、その重みから伝わってくるような気がしたからか。 剣の本当の使い方を教えてやるという男の言葉に、おれは即座にもう一方の剣を捨てて男が寄越した剣だけを握りしめると、さっさと背を向けて歩き始めていた男の後を追った。 前を行く男は子盗りかもしれなかったけれどー 親をなくした子供たちを食いものにする大人たちは当時そこら中にいた。 ほんの僅かな食いものや、時には菓子でつるのだ。親切ごかして保護する体で、結果的に売り飛ばす。 あいにくとおれはこんななりなので、捕まえても商品価値がないと思われたらしく、それまで一度もそういう連中に目をつけられることはなかった。 だからといって、男が子盗りではないという保証はなかったけれど……それでも、おれは男の後をついていくことを選んだ。 男は振り返ることなくただ前をまっすぐ見ているくせに、一定の距離以上後ろを歩くおれとの間があかないようにゆっくりと歩いた。 あわせてくれているのだ、とわかった。 「ついてきますか?」 二人して戦場跡から離れた頃、男はようやく振り返り、おれにそう声を掛けた。 おれが頷いてみせると、男はそうですか、とだけ言って立ち止まった。おれを待つかのように。 恐る恐る距離を縮めたおれが側まで行くと、何を思ったのか男はその場にしゃがんで見せた。 「食事の邪魔をしてしまいましたからね。お詫びです」 その背にもたれ掛かるように言われたおれがこわごわと身体を添わせると、ゆっくりと担ぎ上げた。 「わっ」 急に高くなった視点に驚き、声を上げたおれに 「声、出せるんですね」 男は僅かに驚いたように言った。 「……出せる」 当たり前だろ?憮然として言い返せば 「そうですか。それは失礼しました」 ペコりと頭を下た男が、体を小刻みに振るわせ始めたのが背中越しに伝わってきた。多分、笑っていたのだろう。 「では、わたしとお話ししましょうか」 「話?」 「ええ」 「なんの?」 「あなたの」 「おれ?」 「はい。あなたの」 そうですね、まずは名前から聞かせて貰いましょうか。 そう言われておれはがっかりした。ない、とこたえて男を驚かせたくはなかった。誰にでもあるはずの名前がないなんて知ったら、この男はおれのことをどう思うだろう。 「名前ということばが難しいかもしれませんね」 それ位知ってる!とは言い出せなかった。 知っていても、自分にはそんなものはないのだから。 「あなたは人からなんて呼ばれていたのですか?」 「おに。知ってんだろ?」 「ええ、まぁ。でもそれは名前ではありませんから」 他にはなんて呼ばれていました? 「……みこ……わこ……あこ、それだけ」 「それは……つまり……」 それなり男は黙りこくってしまった。 名前がないのを気味悪がっているのではないか? やはり、おれのことをおにだと思いはじめているのではないか? おれはたまらず唇を噛み締め、男がどんな反応をするかじっと待った。 「このわたしがあなたの名前をつけてもいいってことではないでしょうか?」 顔が見えない分余計に不安にかられているおれの耳に、やけに嬉しげな男の声が届いてきたのはそのすぐ後だった。 おいおいハッキリと判ってくることだが、おれを拾ったその男は随分と変わった男だったのだ。 名を松陽という。 |