「その秋祭りの前夜、庄屋さんの枕元に水神様が現れたそうです。庄屋さん、というのは村の人を守るために大切な仕事をしている人だと思って下さい」 あの日、おれが母親以外の人間に初めてこの姿を見られたとき、むらおさと一緒にその庄屋という奴もおれをどうするか考えたのだろうか。ふとそんなことを思いもしたが、 松陽の話を聞き漏らしてはいけないと、すぐに考え続けることをやめた。 「お祭り、は解りますか?」 「……」 知っているか知らないのか、自分でも解らずなにも言うことができなかった。 そんなおれに松陽は、そうですか、とだけ言い、少しの間何かを考えていたが、しばらくして 「では、わたしたちの村に戻ったら一緒に行きましょうね」 と楽しげに言った。 「わたしたち?」 「わたしと、あなたですよ、銀時」 「一緒に、帰りましょうね?」 それはおれの意志を確認するための問いというよりむしろ、断定だった。 松陽はそれからもしばらく、銀時はきっと飴細工が気に入ると思いますだの、しんこ細工も捨てがたいんですよねぇなどとはしゃいでいた。 松陽には、のらりくらりと話を迷走させる癖があったが、それが故意なのか天然なのか今でも解らない。 その時も「枕元、というのは寝ている人の枕の近く、です」とまた急に話を変えた。 他になにか解らない言葉はありますか?と訊かれ「水神様って、水の神様なのか?」と言うと、松陽は嬉しそうにそうです、そうですと二回繰り返し微笑んだ。 「そんなのが本当にいるのか?」 「いらっしゃるーいる、ということですがーと思う人にとってはちゃんといらっしゃるし、いらっしゃらないと思う人にとってはいらっしゃらないのでしょう」 「なにそれ」 解らなくてもよいのですよ、今はーそう言いながら松陽は明らかに笑いを含んだ目でおれを見た。 「その庄屋さんは水神様がいらっしゃると信じていたのでしょうね。だから、水神様のおっしゃたー言ったーことも信じた」 おれは神様がいるなんて思えなかった。 ましてやしゃべるなんて。 それでも、信じてる奴もいる。 それは解った。だから、神社なんてもんがあるんだと。 その水神様はーと松陽が続けた。 「明日の祭りに、着物に横縞のツギを当てた男が参詣するーと仰ったそうです」 横縞というのはこういうものです、と松陽は自分の紙入れをおれに見せた。確か、唐桟だったと記憶している。 それからも、一つ一つの言葉を噛んで含めるような説明を交えながら、松陽は語って聞かせた。 ずっと昔の話を。 庄屋の枕元に立ったという水神は「明日の秋祭りに着物に横縞のツギを当てた男が参詣するので、その男を堰をつくる時の人柱にせよ」と厳かに告げた。 驚き、目を覚ました庄屋は早速その話を村の世話役たちに話し、祭り当日、みなで参詣する男たちを見ていると、お告げのとおり縞のツギ当てのはかまをはいた男、百太郎が現れたのだ。 あまりのことに狼狽えながらも、それでも役目を重んじる庄屋から話を聞かされた百太郎は、驚き、おそれながらも、村のため、母のためと、その役目を快諾した。 なぜ、百太郎が選ばれねばならなかったのか。 村一番の孝行息子、きっとその心がけを神が愛でられた故であろうと村人たちは涙しながら頷きあった。 藩に幾度目かの工事再開と人柱を立てることの許しを得た村人たちは、水量が減る冬を待って総出で工事に勤しんだ。 その中には百太郎の姿もあったが、やがて、工事が樋門造りにさしかかると、彼は老いた母を残して樋門の大石柱の下に生きたまま埋められてしまった。 それから工事は順調に進み、以後、堰が水で流されることもなく、村は慢性的な水不足から解放されたという。 松陽が語り終えたとき、おれはただ怖かった。 村を救うためとはいえ、生きたまま土に埋められるだなんて。 百太郎はどれだけ恐ろしかっただろう。 どんなに苦しかったろう。 死ぬと解っていて、なんで百太郎は逃げなかったんだろう。 わからなくて、わからなくて、そしてただ、おっかなかった。 それに、なんで庄屋は神様や、神様の言うことを信じたんだろう。 神様って、なんだ? おれは突然襲ってきた寒気に身を竦めた。確かに日は陰ってきたが、それでも、こんなに急に寒くなるなんて変じゃないか? 思わず、刀と、それから松陽の手をさらにぐっと握ると、松陽の手が頭に降りてきた。 そのまま撫でるでもなくじっと置かれた手のひらから、じんわりと温かさが広がってきた。 ほっと息を吐くおれに、 「自然の前に人間は無力です。だからこそ神を信じ、すがりもするのでしょう」 松陽は言い、 「これは昔の話ですが、百太郎さんの村の人たちのような考えは、今でも残っているようですね」 そう結んだ。 |