「神様を信じるか信じないかはその人の自由ですが、信じてる人の中には、更にこう信じている人もいます。神様は人の願いを叶えて下さると」 願いを叶える、というのはさっき神社でも聞いたことだったから、何度も頷くことで、松陽に話の続きを促した。 早く、早くと。 なにしろ百太郎の話が恐ろしすぎたのだ。 どうにかしてその物語から逃げたくて必死だったのだと思う。 「自由というのは……そうですね、銀時、あなたはどうです、神様がいらっしゃると思いますか?」 突然に問われて戸惑ったが、さっき思った通りに答えた。 「いいや」と。 正直に。 「松陽は信じてるのか?」 「ええ」 「なんで?」 「いらっしゃると思った方がなんだか楽しいじゃないですか。それに、昔の人には本当に見えたのかもしれませんよ、神様」 「あ、そう……」 「ええ。でも、わたしが信じているからといって、あなたが神様を信じなければならないことはないのですからね。 銀時は”信じない”、わたしは”信じる”それでいいのです。もちろん”わからない”もあっていい。そういうことです」 しかし、と松陽は言葉を継ぎ、 「確かに、わたしは神様がいらっしゃると信じてはいますが、だからといって、人間より神様を大切にするのは間違っていると思っています」 はっきりとそう言った。 「人より大切にする?」 「そうです。例えば、食べるものがあまりなくてお腹をすかせた人がいるのに、少ない食べ物をお供えにしてしまってはいけません。 神様には悪いですが、生きている人にこそ、食べるものが必要なのですからね」 松陽の言葉におれはどきりとした。 実際、腹を空かせて墓や地蔵に供えられていた食い物を食らったことがあったからだ。 とはいっても、大抵の場合、供え物というのは供えた者たちが姿を消すと、それを待っていたかのように舞い降りる鴉どもに先を越されてかっ攫われるのが おちで、そんな僥倖に恵まれることは珍しかったのだが……。 それでも、後ろめたいという思いがあったらしい。 松陽には神がいることを信じない、と言いはしたが、それは多分に”いてもらってはちょっと困る”からで、ひいては自分の悪行に対する後ろめたさからだったのではないだろうか。 ーいや、違うな。 正直、日々空きっ腹をかかえた明日をも知れぬ身、墓からだろうが死人のーまだ息のある場合だってあったはずだがー懐からだろうが、喰えるものを奪うことに 後ろめたい思いをしたことなどなかったと断言できる。 なにせ生きるのに必死だ。 多分、”後ろめたさ”などという感情は、松陽が「神様を信じている」なんて言ったものだから、急激におれの中で育ったものだったろう。 ろくすっぽ教育も受けず、人との接触もしてこなかったガキのおれが、そんな風な感情の種をいつ、どこで仕入れていたのかはさっぱり記憶にないし、思い出せるものでもないだろう。 思うに、卒塔婆や石造りの墓の持つ独特の 雰囲気や、苔むしていようが顔や身体が欠損していようが微笑んでいる地蔵(後年、地蔵がガキの守り仏と知ってどれだけ驚いたことか!)の不気味さに知らず抱かされていた畏怖の念が、 松陽の”神を信じている”という言葉を受けて一気に罪悪感として芽吹いたものではなかったか。 その後、松陽との暮らしの中で、おれは人として知らねばならぬことと同じくらい、知りたくもなかったことを多々知るようになっていくのだが、 これがごく最初に知らされた”知りたくもなかったことの一つ”だったのかもしれない。 罪悪感など抱かなければ、人はもっと楽に生きていけるはずなのだから。 もっとも、一人で生きていた数ヶ月の間、おれはおれ自身で、知りたくもなかった現実を幾つも見、時に体験してはいた。 その内の一つが、さっき松陽と話していた天候は思うようにならないということで、だからこそ、「神はいる」と言えなかったのだと今になって思う。 罪悪感からなどではなく。 ガキのおれがそんなことを突き詰めて考えようとしたはずもなく、むしろ、なぜ松陽が神がいる、と言い切れるのかが腑に落ちなかったはずだ。 けれど、それすらも、「いた方が楽しいから」という理由を聞かされては納得するしかなかったろう。 なにしろ、相手は松陽なのだから。 そういえば、後に連むようになった桂や高杉が、同じようなことをよく言ってたもんだ。 「先生の仰ることだから」 「先生のなさることだから」 「先生がそう思われるのなら」ーってやつだ。 けれど、それはおれの言う「松陽だから」(後に高杉と桂から松陽と呼んでいることをひどく咎められてからは、 「先生だから」という言い方に変えはするが)とは似て非なるもので、 時にぶっ飛んだ松陽の言動に整合性の欠片も見いだせない場合、あの二人はそう言い合って自分を誤魔化そうというか、納得させようとしていた節がある。 きっと若輩の我々には想像もつかないような深遠なお考えがあるに違いない、と。 おれに言わせりゃ、それは穿ち過ぎってやつで、ただ「松陽(あるいは先生)だから」の一言で終わりなんだが……。 本当のところはどうだったのかと夢の中ででも訊いてみたい気もするが、きっと含み笑いをしてはぐらかされて終わるだろうな、とも解っている 。 あの人は本当にのらりくらりとつかみ所のない、不思議な大人だったけれど、それでも、百太郎の話(そしてそれはおれの話でもあったのだが)を語った時は、 まるで別人のようにきっぱりと自分の考えをおれに伝えてくれた。 だからこそ、恐ろしくもあった反面、それ以上の強さを持っておれを救ってもくれたのだ。 「ーだから、そんなのは、間違っていると思いますよ」 人より神を大切にするのはおかしいと、神を信じている松陽が言った。 「そう……かな……」 「そうですとも!」 珍しく力を込めて松陽はそう言い切った。 「本当の神様や仏様なら、ご自分より先に、お腹をすかせた人に食べものをあげて欲しいーと思って下さるはずです」 「でも……松陽は神様でも仏様でもねぇんだろ?」 「はい?」 「だったら……そう思わねぇ神様や仏様がいるかもしれねぇじゃん。だってそんなこと松陽にはわからねぇだろ?」 「……なるほど、そうかもしれませんねぇ。なかなか面白いことを言いますね、銀時」 おれは真剣だったのでおもしろがる松陽の気持ちはわからなかったが、かといって不快ではなかった。 面白い、だけでは決して終わらせることのない松陽だと知っていたので、おれは黙って待っていた。 松陽がおれに言葉をくれるのを。 するとー 「そんな嫌な神様や仏様はいなくなっても誰も困らないでしょうから、知らんふりをするというのはどうでしょう?」 平気でとんでもないことを言われてガキのおれは驚いた。 が、こうも思った。 神様のことを嫌だと思っていいんだ、と。 正直、百太郎をそんな目にあわせた水神様を嫌だと思っていた。 そんな神様を信じる庄屋も、村の他の連中も、ひょっとしたら、神様の言うことをきいて諾々と死んでしまった百太郎のことも嫌だったのかもしれない。 嫌、というより正確にはこうだったかもしれない。 「むかつく」 多分、そうだ。ガキのおれは怒ってもいたのだと思う。 生け贄を命じる神や、百太郎を含め、そんな神を盲信する連中に。 そんなおれを知ってか知らずか、「神様よりも人が大事」と言い切って救ってくれた先生は、「嫌な神や仏は無視していい」とも断言することでもおれを救ってくれた。 それこそ後ろめたい思いを抱かず、百太郎の話に 腹を立てることができたのだから。 「神様も仏様も信じてくれる人がいなければ、いないのと同じですからね。私たちが知らんふりしてたら、いなくなっちゃいますよ、きっと」 それがいいです、そうしましょうね、そう一人で決めて一人で納得したらしく、松陽は 「神様や仏様を大切にする心はとても尊いとは思いますが、やはり人があってこそですよ、銀時」 そんな難しくて意味の解らないことを言った。 そして、またしても松陽にしては実に珍しいことに、そんな難しい言葉の意味を噛み砕いておれに説明することなく、 「百太郎さんにはお気の毒でしたが、彼はまだいい。彼もまた神を信じて、ご自分から命を捧げる覚悟をなさったのですから」 そう、また百太郎の話を始めた。 「お気の毒?」 そしておれも、先ほどの言葉の意味を問いただそうなどと微塵も思わないほど強く、再び出された百太郎の名に引き込まれた。 「あなたが禰宜に言われたという、おかわいそうと同じですよ」 「ふぅん」 それって、悪いことじゃねぇの、とは思ったが口には出さなかった。 訊かなくてもおれ自身が身をもって感じたことだし、聞かされた百太郎の話も悪いことのようにしか思えなかったので。 「そこで、です。話を元に戻して、今度は起こらなかったことを話してもいいですか?」 おれは百太郎のことと自分のことに気を取られていて、なぜ松陽がそんな昔の話を聞かせたのかをすっかり忘れていた。 松陽に改めて訊かれると、なんだか腹が痛くなったような気がした。 なぜ松陽が百太郎の話をしたのかを考えると、どうしたって嫌なことのようにしか思えなくて。 そのくせ、松陽の話がやっぱりききたくて、おれは「うん」と答えたのだった。 「もう一度言いますが、これは起こらなかったことです」 「……うん」 「そして、これからも絶対に起こりません!いいですね、銀時、絶対にですよ?」 強く言われ、おれはまじまじと松陽の顔を見た。 まっすぐにおれを見つめている目はいつものように穏やかで、笑みさえ含んでいるように見えた。 けれど、その眼差しは強くおれを射貫き、ガキで、今より更に 莫迦だったおれでさえ身の引き締まるような思いをした。 その強さは松陽の意志、というより誓いのようなものを表していたのかもしれない。 松陽はおれから少しも目をそらすことなくーむしろ刺すような視線は徐々に強くなっていった気がするー話を続けた。 |