「墓のように残酷な」 8
そこにいろ。
そう言いたいのだろう、ヅラ子に手で制され、土方はやむなく立ち止まった。
なぜだ。トッシーをこの場に留めておきたい理由がなにかあるのか?
訝しく思いながら、ヅラ子がゆっくりこちらに近づいてくるのを見守っていたが、「待たない約束だったはずだぞ、トッシー」
いつもと変わらぬ涼やかな声に疑念を忘れた。
「え?拙者、ヅラ子たんを待ってたわけじゃないでござるよ?」
大げさにすっとぼけてみせられるくらい、今や心も軽い。
「トッシー……」
そればかりでなく、ヅラ子の僅かに咎めるような上目遣いは、仄かな色香をもたたえて土方を陶然とさせる。
「拙者が待っているのは夜明けでござるから」
お陰でこっぱずかしい科白もトッシー口調も絶好調だ。土方の自尊心と羞恥心は、今や仲良く闇に溶け込んでしまっているらしい。
「では、夜明け殿が来られる前に、おれは退散するとしよう」ヅラ子は本当に背を向けかける。
「えええ、それはないよヅラ子たん」
トッシーが大げさに拗ねると、どちらからとなく笑い出した。しばらく二人で笑いあっていたが、先にヅラ子が真顔に戻った。
「本当にすまなかったな、トッシー。残りの時間はいずれまた」今度こそ冷徹なまでにキッパリと背を向けた。
土方がヅラ子の不自然すぎる変わり身の早さに戸惑っている間にも、華奢な背中は少しずつ遠ざかる。
「待ってくれ、ヅラ子さん!」呼びかけても振り向きすらしない。
変、だ。自分を待ち続けた者をそのままあっさりと捨て置ける人じゃねぇだろ、あんた!
おかしい。何かが変だ。
釈然としない思いを抱きながら、闇に紛れようとするヅラ子の後ろ姿を見つめていた土方は、ふと奇妙なことに気づいた。
遅い。
普段のヅラ子が格別早足というのではない。が、今のヅラ子の歩みは明らかに遅すぎた。日中肩を並べて長く歩いたので、土方にはよく判る。
そういや、さっきの足音……。おかしくはなかったか?
そうだ、確かに自分は乱れた足音を聞いたはず。あれは、間違いなくヅラ子の足音だった。
けれど、今、姿勢を正し、遠ざかっていくヅラ子の足音は耳を澄ませても聞こえない。歩みも遅いだけで、足取りはしっかりしているーように見える。
だがーと土方は考える。
それは、ヅラ子が土方の、つまりはトッシーの存在を意識しているからではないだろうか。
トッシーにいらぬ心配をかけまいと気を張って精一杯努力しているだけではないだろうか、と。闇に聞こえた乱れた足音、ひょっとしたらあれこそが、今のヅラ子の本来の足取りではあるまいか?
そう思ったときには矢も盾もたまらず、土方はヅラ子の後を追った。
「いぁっ」
苦もなく追いついて、あっさり細い手首を捕まえた途端、ヅラ子が小さく悲鳴を上げた。
「わっ、悪ぃ!」
謝りながら、それでも決して手を離さず、土方は捕らえたヅラ子の手首を仔細に眺めようとする。
「は、離せ!」自分が何をされようとしているのか悟ったヅラ子が、らしくない焦った声で抗議しても土方は容赦しない。が、袂をめくるまでもなかった。
掴んだままの手首に、くっきりと鬱血した痕が見て取れた。それは、まるで紅い蛇が、ヅラ子の手首に幾重にも巻き付いているような禍々しい眺めだ。
なんだこりゃあ!
叫びたくなるのをグッと堪えた。ヅラ子が悲鳴を上げるのも無理はない。時には自ら罪人の拷問をかって出ることもある土方でさえ、職務を離れて目にするには痛々し過ぎる。
そもそも、自分たちが攘夷志士、桂小太郎を捕らえたとしてもここまでの拘束はしないだろう。
度を過ぎた枷をかけることは、相手を極度に恐れていることの表れにすぎない。もし、こんなに惨い跡が残るほどの拘束をすれば、桂本人からは嘲笑され、世間からは集中砲火を浴びかねない。
結果、桂に箔をつけてやるようなものだからだ。それにしても。
万事屋の野郎!
「ひでぇ」思わず声に出た。
「だから離れろ、トッシー」ヅラ子が必死で訴える。「万一にでもおれと一緒にいるところを見られたら拙い」
「追われてるのか?」
いいや、とヅラ子は首を振る。あくまで万一の話だ、と繰り返した。
「普段ならあれもここまで莫迦ではないのだが、今はちと危なっかしい。警戒するのに越したことはない」そうして自嘲の笑みを浮かべた。「おれでこのざまだ。だから、聞き分けてくれ」
「他は、あんた、他に怪我はねぇのか?大丈夫か?」それが一番気にかかる。
「大丈夫だ、だから離せ!おれから離れろ!」
「じっとしてろって!」
一喝してもヅラ子は身を捩って嫌がる。が、土方の方も必死だ。先ほどからトッシーの演技を忘れ、すっかり素に戻っていることにも気づかない。
手首を掴む力を決して緩めず、ヅラ子の頭から足先まで素早く目を走らせてみる。痛みに耐えているらしく、唇を強く噛みしめている。顔からは色が抜け、いつも以上に白い。襟元は僅かに乱れ、
帯の締めが緩いのか裾も広がり気味だ。どれもこれも、何事にも隙のないヅラ子らしからぬ有り様で、無駄に色っぽい。
こりゃ、このまま帰せねぇな。
もうすぐ明けの六ツを知らせる鐘が鳴るはず。商家では、丁稚達がとっくに立ち働いている時分だろう。それでなくともこのなりでは人目につきすぎる。木戸も開くし、目敏い番太郎にでも正体が見破られでもしたらどうなる。ヅラ子は手負いの上に丸腰だ。
考えたくもねぇ。
やはり夜までどこぞに匿ったほうがいいだろうと土方は腹をくくった。だが、どこに?
それに問題がもう一つ。こちらのほうがかなり深刻だ。それはー
「離せというに!てか、このしつこさはひょっとして貴様、土方か!?」
やべ、すっかり忘れてた。にしても、あんたも気づくのが遅ぇだろうよ!
当のヅラ子自身に、土方に匿われる気持ちなど毛ほどもないだろうということだ。
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