「墓のように残酷な」 9


まだまだ夜は遠いらしい。
ざわざわと小さな虫が何匹も這うような音で目を覚ました桂は、 狭苦しい屋根船の天井をぼんやり眺めている。周囲は薄暗く、四方を囲む簾の隙間から入り込んで、そこに映ってゆらゆらゆれるはずの水紋は見えない。
雨、か。
桂は小さく嘆息した。雨を厭ったのでも、時間を持てあまし、倦いたのでもない。 ただ、これからどうしていいか判らないのだ。漕ぎ手のいないこの船のように、 先行きが見えない。

危惧したとおりに自分を待ち続けていたトッシーの元に戻れたまではよかった。 貫徹できなかった約束を、いつか必ず果たすと告げることが出来たことも。なのに、その相手がこともあろうに土方だったとは。しかも 怪我を悟られた挙げ句、こうして匿われる羽目になるとは。予想外どころか青天の霹靂だ。
情けない。
もちろん、桂とて土方の言に諾々と従ったわけではない。むしろ徹底的に抵抗した。口を酸っぱくしてどれだけ諭されようが、頑として首を縦には振らなかった。 番太郎がどうした、丸腰だから何だというのだ。貴様、おれを誰だと思っているーと。
その度、土方が噛んで含めるように、ヅラ子の格好でふらふら(本当にこう言いおった!)出歩くことの不用心さを懇々と説くのだ。とうとう桂が 無視を決め込むと、さすがに声を荒げ始め、憤怒を抑えるように固く拳を握りはしたが、それでもー。
気が短いところも、銀時に似ていると思っていたが……。
土方は、決して桂に手を上げようとはしなかった。不機嫌さを隠そうともせず、桂を諭そうとする言葉と声に、あからさまな棘を含むようになっても。 怒りを覚えていながら、押し殺そうとしていたことが、かえって桂の胸にしみた。 だから、だろうか。つい、折れてしまった。

「解った。貴様の顔を立ててやろう。その代わり、一つ貸しだからな」
「なんでだぁぁぁぁぁ!?」
「人目を避けようかという者が騒ぐな、煩い。貴様の言うことを聞いてやると言っているのだから有り難く思え、芋!」ビシッと土方に言い渡したまではハッキリと覚えている。その後が少し……曖昧だ。 意識を失ったわけではない。 その後も土方があれこれ言っていたような気はするし、ずっと自分の足で歩いたように思う。 時間を潰すのに船を提案したのも調達したのも確か、自分だ。土方にどこぞに連れ込まれるよりはマシという判断力があった、のだと思う。 いざとなれば突き落とせばいいだけだ、と。乗り込むにはちょっとしたコツのいるこの屋根船にだって、へまをせずに乗り込んだ……はず、多分。……そうに違いない。
やめた。
桂は正確に記憶を辿るのをやめた。細かく思い出してろくな事はない。思い出せないことは思い出さなくてもよいのだ、と割り切った。大事なのはそう、これからだ。 だがー。先ほどからそれが判らないから困っていることに気づいて、桂はまた溜め息をついた。
エリザベスが心配していなければよいが。
一番自分のことを心配しているであろう男のことは、あえて考えないことにする。あれは後でなんとでもなる。問題はーと、桂はちらりと土方の方を見た。土方は、桂の左側で背を向けて横になっている。 先ほどからピクリともしないので、眠っているのかもしれない。土方にも長い夜だったのだから無理もない。桂は傷に負担をかけないようにゆっくりと上半身を起こし、そっと顔をのぞき込んだ。思った通り、眠っている。
こんな風に寝こけていられるのは、手安綱をどこぞの岸に繋いでいるからーとみて、まず間違いないだろう。
逃げるなら今だな。
そう思うのに、桂は動かない。ここに、眠ったままの土方を置いて行くのが、なんとはなしに嫌なのだ。敵同士でおかしなことだと思うが、それは土方にも言えること。土方は桂を匿ったために、今、ここにこうしている。黙って去るなど、不義理ではないか。それに、もしも目覚めたのがトッシーなら……。 だから。
いい加減起きんか土方!貴様さえ目を覚ませば、こんな狭苦しい船とは堂々とおさらばだできるというのに。ついでに貴様ともな!
じっとしたままの土方の背中に向けて、桂は念じた。その、気配を今度ばかりは感じたか、土方が身じろぎをした。
まずい、起こしたか!?
むしろ積極的に起こしていたはずなのに、いざ、土方が起きる素振りを見せると桂は慌てた。慌てて咄嗟に目を閉じ、眠ったふりを決め込んだ。さて、目覚めたのはトッシーか、それとも土方か?と考えながら。


一人、傍らでちょっとした修羅場を演じていた桂をよそに、土方は、寝起きでかすむ目を擦りながら、ゆっくりと覚醒した。覚醒した途端、優に2年は寿命を縮めたかと思うほど驚いた。
ヅラ子さんじゃねぇか!
気づくや、土方は文字通り跳ね起きた。急激に身体を動かしたせいか、隣に横たわる人物のせいか、早鐘を打つ心臓をどうにか宥めながら、土方はヅラ子の様子を窺った。
眠ってる……のか?
のぞき込んで見た作りの小さな顔は、白粉が落ちてなお、いつもと変わらずぬけるように白く、美しかった。綺麗にのっていたはずの紅がすっかりとれている唇さえも。
これが、男、とはねぇ……。
素直に驚いて感心する一方で、この度はずれた美しさが、今ばかりは痛ましい気さえした。
これだけ綺麗ってのも、罪作りなもんだ。これで身を誤らせた奴だっていたに違いねぇ。多分、本人も。
自分のことは棚に上げ、土方はヅラ子のためにもどこか小さな瑕を見つけてやりたくなった。ここまで整っていると、人間というより作り物めいていて恐ろしくなる 。 けれど。そんな底意地の悪い目でもって更に間近で見ても、土方の目にヅラ子は変わらず綺麗だった。 ヅラ子を構成しているものは、まるでどれも華奢な細工物の様だ。繊細で、美しい。
繊細どころか呆れかえるほど図太い上に、とんでもねぇはねっかえりだがな。
ヅラ子を説き伏せ、この船に乗り込むまでに、どれ程骨が折れたかを今更ながらに思い出して、土方はがっくりと脱力した。
しかも、それがおれの”借り”になってるってのはどういうこった?横紙破りにも程があらぁ。
こんな美人さんがーと土方は苦笑する。そうして、そういった横紙破りこそがヅラ子の瑕と言えなくもないことに気づき、なぜか土方は安堵した。
よかったな、別嬪さん。あんたは作りもんなんかじゃなく、充分血の通った人間だってこった。
当たり前のことにくすりと笑い、土方は白桃のような頬にそっと触れた。途端、その柔らかさにぎょっとして手を引っ込めた。
おいおいよしてくれよ、これが男の頬か?勘弁してくれ、いやマジで!
あり得ないものに触れた驚きで、土方は改めて先ほど自分の指が触れたはずの場所をしげしげと眺めた。薄暗さに段々慣れてきた目には、ヅラ子の 頬がぼんやりと光って見える。涙に濡れたせいかもしれないという気がした。こんな風に泣かせたのはーと心がぞわぞわと騒ぎ出すと、 土方の胸の奥深くに押し込めている嫉妬だの憐憫だの罪悪感だのの複雑な感情が、我先にと声高に存在を主張してくる。とりわけ一番長く、厳重に抑圧されていた ものが、その反動でここぞとばかりに己を喧伝する。そればかりでなく、土方をしきりに唆す。 もう押し返せないその情動の力強さに、土方は抗う気すら起こさない。 ぼんやり光る泪の跡に引き寄せられるようにして、ヅラ子に唇を寄せたがー
再びあの滑らかさを賞玩しようとした矢先、瞠られた大きな目と視線が合ってしまった土方は、一気に血の気が引くのを感じた。

「かっ、つ、つら子たん、よく眠れたでござるか!?」
咄嗟にトッシーのふりはしたが、いくらなんでも無理がありすぎた。背中を冷たいものが流れる。
莫迦か、おれは莫迦なのか!?
まずい。絶対殴られる。



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