「ニルアドミラリの喪失」3
突然、組み敷いた身体から何か頑なさのようなものが抜けたのを銀時は感じ取った。
代わりに匂い立つような艶めかしさが杳として桂の裸身から立ちのぼるのも。
今、全てを委ねられ、捧げられていると銀時は確信した。
身体の芯から痺れるような狂喜が、全身を駆け巡る。
「小太郎」
あまりの愛おしさに、平素呼ぶことのない名を呼べば、桂は陶然とした笑みを浮かべ、その紅唇がそっと”ぎんとき”、と象った。
やばい。
てか、おれがやばい!
既に何度も達している桂の身体を気遣って銀時なりにゆっくりことを進めるつもりが、そんなこともいっていられない状況に追い込まれてしまった。
桂の艶容を前にして銀時の分別など陽光の前の残雪より脆い。
あっけなく崩れ去り、一片の痕跡すら残さず霧散する。
「っいあぁ!」
急に上体を起こされ、否応なしに深く深く繋がされると、桂から嬌声とも悲鳴ともつかない声が上がった。
その声が耳に心地よい。
力なく、銀時にしなだれかかっている桂の重みが愛おしい。
細腰に手を当てて軽く上下に揺さぶってやると、身を捩って啼く桂の痩身を思い切り抱きしめ、離さない。
銀時の動きに合わせて揺れる漆黒の髪から覗く耳が、ぽうっと薄紅色に染まっていく。
吸い寄せられるように耳朶に口づけ、やわやわと食む。耳孔を尖らせた舌先で舐り、びちゃびちゃと音をたてて味わった。
「んっ、あっ、いぁあ!」
かぶりを左右に振り、なんとか逃れようとするのを頭を押さえ込んで阻止する。
あまり意に沿わぬことを強い続ければ、恨みがましい視線の一つや二つ、あるいは罵声の一つ、二つを覚悟せねばならないのだが、
今夜ばかりは桂はただ、泪で応えるのみで。
こんなことはついぞなく、ひょっとしたら、ほとんど無理強いするようだった初めての交媾以来のことではないかと銀時は思い出す。
あの時、桂がなぜついにはそんなことを許したのか、銀時は未だに不思議に思い返すことがある。
桂も自分と同じ気持ちを抱いてのことだった、などと自惚れそうになる度、それは違うはずだと己に言いきかせてきた。
せいぜいが友情や任侠による自己犠牲、あるいは戦時下という非常事態下において生への執着、あるいは真逆の無関心が招いたことではなかったか、と
。
しかし、それ以上は突きつけて考えることは心が拒否した。
銀時とて傷つきたくはないので。特に、桂のことでは、なおさら。
それでも、と今こそ銀時は思う。
一片であったとしても、自分に対する慕わしさに似た感情が桂にもあったのだと信じたい。
たとえ愛と呼ぶにはあまりにも受動的なものであったとしても。
さもなければ、桂ほどの気高い魂を持つ男が手折られるわけがなかったのだと。
なればこそ、時を経てなお己を探し、手を伸ばしてくれたのではなかったのか、と。
今宵ばかりは!
いずれにしろ、桂の泪に濡れた睫が常にない切なさを伴って銀時に迫り、なににもまして代え難い存在であることを、実証してみせる。
「…小太郎」
愛しい者の名をもう一度呟くと、銀時はそろりと律動を再開した。
動きが激しいものになるにつれて、耳に甘やかな吐息がかかり、それが段々と喘ぎに変わる。
ついに果てた時、一際高い桂の嬌声を耳にしながら、銀時は限りない幸福の中にいた。
深い眠りから桂を覚醒させたのは不快ともいえる違和感。
腹におさまりきらなかった銀時のものが、ねっとりとした感触をもってとろりと足を伝い落ちている。
気持ち悪いが身体がだるいほうが勝り、躊躇なく少しの間くらい我慢することを選んだ。
しかし、腹立たしいことには違いないので、後でこの冷たい敷布で銀時が眠ることを考えて、わずかに溜飲を下げておく。
「起きた?」
そんなことを考えていたら、桂の身じろぎに気付いたらしい銀時の声がした。
「どけ、重い」
桂は、巻き付けられている銀時の腕を邪険に押しやる。
「んだよ、目覚めの第一声がそれかぁ」
「ふん」
すっかりいつも通りに戻っている銀時に安堵して、桂もいつも通りに振る舞う。
機嫌をとったり、神経を逆撫でしたりする必要はない。
やれやれ、だな。
さて、役目も終わったことだしそろそろ…とばかりにゆっくりと身体を起こしかけるが、痛みで思うように動けない。
「まだ寝てろ」
銀時がそんな桂を制し、まわした腕に力を込めてもう一度ゆっくりと身体を押し戻した。
そうして華奢な背中にピッタリと自分の身体を押し付けると、
「なぁ、どこ行ってたんだよ」
とぼそりと問うたのだった。
そろそろ答えるべきか?
直接桂の口から伝えた方が、齟齬はない。後々、事実がねじ曲がって伝わったりしたら、目も当てられぬ。
しかし、ここで正直に答えることによって、再び銀時の怒りが再燃しないという保証はどこにもない。
なら、むしろ嘘をつくという手もあるが、もしもばれた時に銀時を一番怒らせることになるのは必定。
桂がどうするべきか逡巡していると、
「…痩せた、な」
わずかな沈黙の後、銀時が言った。
一頻り桂に怒りをぶつけて気がすんで我にかえってみると、今度は悔悛の情がわいたらしい。
声に隠る真剣さにそれが滲み出ている。
怒ったり、心配したりと全くややこしい奴め。
「そうか?」
げんなりしがらも、その場その場の感情に素直で子どもっぽいところが憎めない。
穏やかな声で聞きかえしてやると、既に己が許されているらしいと知った銀時が桂を抱く腕に瞬間力を込めた。
本当に仕方のない奴。
…痩せた、か。
自分でも気付かなかったがさもありなん。
江戸を去って戻るまでのこの数ヶ月間はいっときも心の安まる暇などなかったのだから。
それにしても。
おれの心の中など微塵も解りはしないくせに、そういうことには相変わらず目敏い。
相変わらず?
ああ。そうだ。
昔から銀時はそんな風だったな。
普段周囲に碌に感心を示さないようでいて、そのくせ誰よりも周囲の変化に敏感で。
まわりが見えていないのはむしろおれの方だったのではなかったか?
ああ。そんな気も、する。
昔からおれはそんな風だったかもしれぬ。
そんなおれでも、かつては鬱陶しがる銀時におかまいなしに、構い続け、世話を焼き続けたのではなかったか?
どうしてこう、記憶があいまいなのだろう?
幼い日の銀時やごく身近な人々のことはそれなりに思い出せるというのに。
己のことになると
雲でも相手にしているかのように、ふわふわと頼りないのは?
「京?」
感傷は銀時によって秘やかに発せられた地名に遮断され、桂は否応なしに現実に引き戻された。
当てずっぽうか、ただのまぐれか。
多分、銀時は自分にとって最悪の答えを導き出したのだろう。
当たっていても外れていても、それ以上に悪い答えはない。
予め最悪を想定し覚悟をしていれば、深く傷つくこともない。
そういう用心深いところが幼い頃から銀時にはある。
「ああ」
不意を突かれたとはいえ嘘をついてやることも出来たが、どうころんでも、結局は正直に言った方がましだという結論に達し、桂は正直に答えた。
「会ったの?」
あえて名を出さない銀時に、桂は控えめに苦笑する。
そういえば京で顔をあわせている時、奴の方も貴様の名前は口にせなんだな、と。
あきれかえるほど、変わっていない。
貴様も、奴も。
どれだけ時を経ようとも、あの頃の幼い子どもの心を裡に残したままで。
それなのに…。
なぜ、今はこうして別々の方向を向いて生きている?
奴はまだいい。
どういう道順でどういう装備で登頂を目ざそうが、目ざす頂は同じはず。
だが、銀時はまるで違う。
銀時は、頂を目指すことをとうに止めてしまっているのだ。
違っていて当然。
それは解っている。
が。
「ヅラ?」
銀時の呼ぶ声に、桂は再び我にかえった。
どうしたことか、意識までもが定まらない。
隙あらば過去と戯れようとしているようだ。
こんなことではいけない、と気を引き締めると、桂は諦めの悪い銀時の追及を正面から受け止める腹を固めた。
「ヅラじゃない、桂だ。ああ、会った」
できるだけさらりと答えたつもりが、先ほどまでの物思いのおかげか声に変な調子が混じったらしく、銀時が微かに息をのんだのが背中越しに伝わってきた。
「なんで言わねぇ」
「今、言ったではないか。それにおれが奴と会おうがどうしようが貴様には関係ないであろう?」
銀時の詰るような口調に、つい、そう付け加えずにはいられない。
「なんでそういうこと言うの?」
「昔馴染みとしてではなく攘夷志士同士として会ったのだ。貴様にどう関係ある?」
桂にまわされている腕がするりと外され、銀時が起き上がる。
「なに、その言い方。おれを怒らせたいわけ?」
「怒る?なぜ?貴様は攘夷とは無関係ではないか」
「そうだけどよ!けどなぁ…」
銀時は言葉を切ると桂の髪に顔を埋め、黙り込んだ。
「けど?」
桂は容赦しない。
自分が不在のために銀時にかけた心配させた分の償いはすんだはず。
けれど、それと攘夷の話は別だ。
部外者にあれこれ言われるのは御免こうむりたい。
特に銀時には。
銀時は、白夜叉であることを止めた時、攘夷やおれをも___ではないか!
「けど、おまえがおれを探したんじゃねぇか!おめぇが手を取ったのはあいつじゃなくておれのだったじゃん!」
叫ぶように、銀時が訴えた。
「ああ、そうだ。そうだな、銀時」
優しく言われ、銀時がホッとしたのも束の間、だが、桂は冷酷に言葉を継ぐ。
「生憎とおれが探していたのは白夜叉だったのだがな」
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